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「特別なじぶん」と「平凡なじぶん」が編みだす世界のひみつ

一見似ても似つかぬふたつの項目を見比べたら、実は根っこの原理は同じだということがある。

2年くらいまえに、「ストレングスファインダー」なる、個人の気質や能力を5つのカテゴリーに分類してくれる、いわゆる性格診断をやったのだけれど、その5つのうち「着想」というタイプが含まれていた。

他の4つは「達成欲」「学習欲」「内省」「収集心」だったが「着想」だけが少し異質で、でも説明を読めばとかくドンピシャだった。

なんでも、「着想」とは、その性格診断にのっとれば要約すると「異なる事象に共通項を見出し、結びつけて考え、新しい視座を与えること」らしい。

なるほどたしかに、たとえば文章を書くとき、言葉の意味を考えるとき、旅をしているとき、新しいことを学ぶとき、料理をするとき、人との関係性のことで悩むとき、仕事の質について考えるとき、その他暮らしのいろいろ、それらすべてに共通することがらを探すし、見つかればいろいろなことが腹落ちする。

まるで世界のことわりを紐解いているような、ひみつを垣間見たような気持ちになる。

つまるところどんな複雑怪奇な出来事も、世界にひとつだけのスペシャルなアイディアも、難解に思える世界のメカニズムも「本質は単純なたったひとつのもの」で語ることができる気がしてくるし、事実、そう思っている節がある。

たとえば、薪ストーブの火は、一気に猛烈な強火を作るのではなくじっくりゆらゆら揺れる微弱な炎をキープすることで結果的に室内の暖かさが持続するということを教えてもらったのだけれど、これって勉強とかダイエットにも言えるな、ということを、薪がパチパチ燃える音を聞きながら考えたりした。

付け焼き刃で詰め込んだ知識は、忘れるのも早い。分からなくても必死にじっくり向き合って勉強した課題はいつまでも忘れない。

ダイエットも、いろいろなテクニックやお金をかければ急激に痩せることはできても、その場しのぎの減量は続かず数ヶ月後にはむしろ太った、なんてこともザラにある。3ヶ月で10キロ痩せるより、一年で10キロ痩せる方がリバウンドしにくい。これは、経験則。


なにかとなにかの、同じ部分、共通するものを見つけると、うれしくなる。

一つの世界が一つで完結せず、人間が創り出したものだから人間が創り出したほかのものと交わり合う、その交差点を見た気がする。

あともうひとつ、なんの根拠もないけど、ぼんやり確信めいていることがあって、それは、「今ひらめいた斬新なアイディアは、たいてい世界の誰かが一度は考えたことのあることだし、まったくのオリジナルは、たぶんおそらくもう出てこない」という半ば暴力的な、強引な思想だ。

最先端の技術も、誰かの作ったSF小説に出てきていたり、ドラ◯もんの道具だったりして全くゼロベースの新しいものは、たぶん、ない。

ただ、同じものの焼き直しではなくて、時代に合わせて形を変えたりコンセプトが少し変容していたりすることは、大いにある。

昔からあったもの、変わらないものを、変わりゆく時代の波に合わせて骨組みはそのままに帆の形やコンパスの精度を変えながら対応してゆく変幻自在の船のように。

人は、諸行無常であり、盛者必衰だという事実をも信じて疑わず、変わりゆくものの中に変わらないものという一本の筋を“共通項”として見つけたとき、それが真理だと思えば、安心する。

そう、安心する。

なぜ?

「いま」起きていること、「いま」縛られていることを俯瞰して俯瞰して俯瞰して、宇宙の果ての果てから見下ろすような広角レンズで、「いま」の世界を見渡せるようになるから。

時間も距離も超えて「今も昔も変わらない人間の業」みたいなものとか「今も昔も変わらない人間のすっとこどっこいなところ」みたいなものを見つければ、わたしの悩みや存在など取るに足らないものだと、気張った心が安らぐ。

「所詮人間なのよ」という事実は、決して後ろ向きではなくて、限りある命を、有限のものと認めて前を向くために必要な覚悟で、「凡人」に生まれ凡人で死んでいくのでも許される、「特別な人間でなくても生きていて問題ない」という許しを得たような心地になる。

「自分はオンリーワンで特別だ」ということに、喜びと誇りを感じることもあるけれど、それと同じくらい「取るに足らない平々凡々な自分」であることにもすごくホッとする。

それは「異なる事象に共通項を見出し、結びつけて考え、新しい視座を与える」ことで、わたしも大きな盛衰の輪の中にいるという安堵感を与えてくれるのと同時に「わたしもまだ変われる余地がある」という希望でもある、と感じるからだ。

この感覚に確信を得たのは、キューバのカリブ海を見ながら数時間ビーチでボーッとしていたときのこと。

がむしゃらになってエンジンの空ぶかしみたいに興奮した自分の心とからだを砂浜にうちやっていれば、ザザンザザンと大きく満ち引きする波の動きとともに日は傾いてゆく。

「わたしがこうして何も生産せず、ただ浜辺で寝そべっていても、地球は回るのだな。わたしが必死こいてがんばらなくても、世界のほとんどの人には迷惑にならないのだな」と、当たり前すぎて誰も声に出さないようなことを4時間くらいボーッとしながら、強い風に流されてゆく雲を目で追いながら感じて、なんだか心底ホッとした。

「わたしは特別。誰かに必要とされている存在」という認識は、人を強くする。

でもなぜか「わたしなぞ居なくても世界は回る」という認識も、わたしには必要だった。

思い上がった自意識過剰な青二才に、第三者的な自分が冷や水をぶっかけたようなものなのかもしれない。

とにかく、いくつかの「特異なもの」から同質の「変わらないもの」を見出す心地よさは、わたしにとって大切な肌触りで、おそらくこれからも何かと何かを結びつけたり、異なるもの同士が無意識に分かち合う精神性などを発見しようものなら、そこに小さな小さな世界のことわりを見つけ、ひそかにムフフとほくそ笑むことでしょう。

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