誰からも頼まれなくても続けられることが、一つだけでもあったなら
年末、読みたい本をたくさん買って、かたっぱしから読んでいった。
そのうちの一冊に雑誌「美術手帖」のアートと人類学特集がある。
「美術手帖」を読みながら、2017年の3月に、イギリスのマンチェスターへ、SICK! Festivalというパフォーミングアーツの祭典を見に行ったのだけれど、そこに登場するアーティストたちは、ダンサーだけどジャーナリストとも名乗り、アートディレクターでもありつつも映画監督もやっている……というように、一人がいくつも肩書とをもっていた。
世界から集まったアーティストの誰もかれもが、多彩に“表現”をしていて、その手段がダンスであろう写真であろうと、“方法”に執着しているようには、あんまり見えなかった──ということを思い出した。
なぜ、この「美術手帖」の特集を手に取ったかというと、芸術と生活文化の交差点のヒントが、ここにある気がしたからだった。
読み終えた今、思うのは「わたしもしっかり表現者で在ろう」という決意だけだ。
わたしは芸術的な絵も描けないし、秀逸なインスタレーションを構築することもできない。
超絶技巧を持ち合わせているわけでもないし、音楽もできない。ものづくりは好きでも、それは趣味の域を出ない。
表現方法はわからないけれど、伝えたいことや追求したいことは、ある。
そしてそれを、伝えたいという思いも。
どんなふうにだって、きっと伝えることはできる。
じゃあ、わたしなら?
そう考えると、わたしには、書くことしか、ない。
それしかやってこなかったから、残念ながらそれ以外はほとんど適応能力に欠けると自分では思っている。
「文章を書く」という表現方法で、芸術と生活文化に向き合っていくしかない。
誰にも頼まれたわけでもなく、やりたい、むしろやらずにはいられないことばかり、愚直に続けていたけれど。
それを、もうひと段階、アップデートするラインに立っている。
なにをして、その壁を超えていいのかはわからない。ただ、とにかくつべこべ言わずに書け、書き続けろ、という声がする。
無い物ねだりでよそ見をするな、書け──。
わたしではなく、どこか遠いところにいる、神様みたいな人が、なまけそうになるわたしにそうやって発破をかけてくる。
ずいぶんと、「書く」という行為に助けられてきた。
わたしなりの生きるすべだった。書くなと言われたら、きっと死んでしまうから。
伝えたいこととしての「生活文化」は、一言で表せこそすれ、その指し示す範囲は広い。
衣食住を中心に、人々が紡いできた文化の層は、とてつもなく分厚い。
いったいどこからきりこもうか、と途方にくれる。
けれど、幸いわたしは、東京にいない。
北海道という、これまた途方も無い自然をたたえた、圧倒的自然の中に居る。
この環境を、活かさない手はないね。
「よく見て、書け」。
その声が消えてしまわないうちに、「書く」ことを通じた表現者への階段を、どきどきしながら上ってゆく日々。
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