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無理なく、無駄なく、楽しんで

Nafshaはゲストハウスですが、オーナーである私たち夫婦が暮らす「生活の場」でもあります。
私たちはゲストハウスをつくる時にmottoを決めていて、それが「無理なく、無駄なく、楽しんで」というもの。

なぜこの三拍子なのかと言うと、それはこれらが私たちの思う理想の暮らしを "持続可能な" ものにしてくれる要素だと思うからです。

これらの言葉から受け取る印象は、人によって違うかもしれません。
が、今回はそれぞれの言葉について、私たち夫婦の思う定義を書き記しておこうと思います。

無理なく

読んで文字のごとく「無理をしないこと」です。
これは何かを主張する際によく見られる傾向ですが、自分が正しいと思うことに愚直であればあるほど、段々とその行いに "無理" が生じてきやすくなります。
特に日本人は…なのでしょうか?ちょっとぐらい無理をしている方が頑張っている感じに見えるかな?とか、本人自身もその頑張ってる感じに陶酔してしまったりとか。自分自身にも思い当たる節がいくつも…(辛)。結果、その無理によって満たされるのは本人の自己愛だけ、なーんてこともありますよね。

日本の文化の中では、まだまだこの「無理なく」という言葉は誤解されやすいかもしれません。ですがこれは何も「頑張らない」と言うことを主張しているわけではないのです。
"過ぎたるは及ばざるがごとし" の言葉を胸に留めて、「これって本当に必要かな?」を問う姿勢のこと。つまりは自分たちの "ちょうどいい、いい塩梅 でいきしょう" ということを意味しているのです。

無駄なく

無駄なく、これも文字通りですよね。
だけどこの言葉を使う時、やっぱり少しだけ、私たちが指す意味と受け手側との感じ方にズレが生じているなと思うことがあります。

私たちの「無駄なく」は、極限までそぎ落とした無駄のなさを指してはいません。正直な話、流行りのミニマリストのような生活は、ぜっっっったいに自分たちには出来ないと思っています。ほんとに無理です。
じゃあ私たちにとっての "無駄のなさ" とは何かと言うと、それはつまり「足る知る」ということです。
安いからと言って買い過ぎない、持っている物の価値を使い切る等々、自分たちの必要なものを必要なだけ、大切に活用し尽くすというあり方です。

楽しんで

最後の「楽しんで」。
これが一番大切な要素だと思っています。
何か良い行いをしようとする時、人はとってもまじめに考えます。
「誰かのために、役に立つことを」と思うこと自体は尊いのですが、行き過ぎると「無理なく」同様、独りよがりのはた迷惑な主張に陥ってしまいがちです。
何より大切なのは、その尊い行為や想いを "持ち続けること" ではないでしょうか。もしこの世界の有様を嘆いて本気で変えたいと思うなら、一晩考えて来週には実現できます、みたいなタイムスパンでは計画しませんよね(いや、本当はそんな風に劇的に変わってくれれば有難いのかもしれませんが)。
だから向き合う課題が大きく深刻であればあるほど、この「楽しむ」の効能が効いてくるのです。じっくりじわじわ、漢方のように。

だから私たちは笑い続ける

このmottoは、そのまま「持続可能な社会」に当てはめて考えることができます。無理なくトライして、無駄なく使って、楽しく続ける。

実は、この考え方のヒントになった本があります。
医師であり写真家であり国際協力家の山本敏晴氏の著『国際協力師になるために』です。
この本の中で一番心に残っているのが「はじめの一歩を示してあげる」という箇所。何かしたいけど、何からしていいのか分からない。国際協力、環境問題、貧困…世界中には深刻に向き合うべき問題が山積してるけど…やらなきゃいけないのは分かってるけど…話がおっきすぎて分かんないよ!
そんな時に必要とされるのが「ここから始められるよ」というはじめの一歩となる情報だと、この本の中で山本さんは説明しているんですよね。

この話を震災後の福島に置き換えて考えてみます。震災の被害に加え、原発問題も抱え続けている福島県。
世界中が注目する重大な問題ですが、この大きく深い課題に向き合うために必要なのは、より多くの人が「どうしたら関われるか」を示すこと。その "はじめの一歩" を提示することです。

私たちにとってその一つの答えが「ゲストハウス」でした。

福島で生活するってこんな感じかぁ。
案外普通だな。思ったよりしんどいな。やっぱり放射能はこわい。いや結構大丈夫かも…。 答えはそれぞれかもしれませんが、まずは「自分の目で見て触れる」そして「感じてもらう」。その "実践の場"としてのゲストハウスが私たちの提供できるはじめの一歩です。

guesthouse Nafshaは宿であると同時に、私たちの生活の場でもあります。原発問題と長く付き合っていかなければならない福島では、むしろ "原発と向き合う" の方が日常になっている / いく(ここは正直複雑な想いがありますが)、と言えるかもしれません。
日常は、続けなくてはなりません。嫌でも、しんどくても、それが自分たちの生活の中で切り離せないのなら、向き合うしかない。だから少しでも笑うんです。あはははって。つれ~な~って。でもやるしかないかって。そしてまた辛くなったら、また笑うんです。がははって。今度は誰か大切な人と一緒に。

22NOV2020
*Misato*

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