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かっこいい人間の定義

さて、かっこいい人間の定義を始めよう。


ここで僕が述べたいのは一般的にどんな人がかっこいいとか、どんな人がモテるだとか、そういう大衆感覚の話ではない。


極めて個人的な美意識の話である。


つまるところ、僕自身がどんな人間をかっこいいと感じ、どんな人間に心を動かされるのかを探求していくということだ。


そして前提として、かっこいい人間の対象は男性に限った話ではない。

女性でも子どもでも性別年齢関係なく、かっこいい人間はかっこいいのだ。


では早速結論を述べる。


それは「いくらでも無知になれる人」である。


もっと別の言い方を考えてみよう。


自分の心の中に無知の領域を抱えていて、いつでもそこに飛び込むことができる人、という言い方もできるかもしれない。


いや、難しい。どう表現すれば伝わるのかどうか分からない。


とにかく僕が言いたいのは、どれだけ経験を重ねても、どれだけ知識を獲得しても、どれだけ洞察に優れていたとしても、「目の前の出来事や物事に対して新鮮な眼差しを持てるか」ということなのだ。


僕が知る限り、これができる人は本当に稀である。


ただ誤解してほしくないのが、これは「知らないフリ」をするということではない。


彼らは本当に知らないのだ。


だからこそ目を輝かせるし、素直な驚きの表情を見せるし、前のめりの姿勢を表す。

僕はそういう人間に強く惹かれてしまう。


では、僕のどんな原体験からこれを考えたかを述べるとする。


記憶を遡ると、確か4年くらい前だったような気がする。


僕が教師をやっていた時の話である。


どんな職業にも研修があるように、僕が勤務していた学校でも校内研修があった。


その日は外部講師が僕の学校に訪れた。


道徳の先生だった。ここではA先生と呼ぶことにする。


A先生は飛び込み授業という形で、6年生の教室に入り、師範授業をしてくれた。


その授業の詳しい内容はここでは割愛するが、とにかくすごい授業だった。


まるで優れた芸術作品を見た時のような緊張と集中がそこには存在していた。


これが本物の道徳の授業なのだなと思った。

これが授業のプロなのだなと思った。


具体的に言うと、初対面のまだ関係性ができてない教師に対して、子どもたちが自ら積極的に発言をし、問いに対して真剣に思いを巡らせ、仲間の発言にも興味を持って耳を傾けていた。


そして、そこには“やらされている感”が一切なく、純粋な能動性によって彼らの行動が規定されているように思えたのだ。


もちろん、最初は子どもたちも緊張をしていて発言を遠慮していたのだが、後半にいくにしたがって発言の量も質も異様なスピードで加速し、深化していった。


終末においても、授業での学びや気づきや発見を、振り返りシートいっぱいに文字が埋まりそうなほど筆を走らせている様子が見られた。


僕はその授業に釘付けになった。


まるでその空間にいる子どももギャラリーの僕らも魔法にかけられたみたいに、全てが一体的だった。


この教室では何が起こっているのだろう。


もちろん、課題設定、教材提示の仕方、板書や発問が優れているのは分かったし、それ故にこのような子どもの姿が現れているのも納得がいった。また、ある程度成熟された学級だからこそ実現する授業でもあった。


でもそれだけでは説明がつかない何かがそこにはあった。


そして僕は仮説を立てた。


この授業を成立させているのは、教材や発問ではない。


A先生の人格である。


A先生の人格的な部分に、この得体の知らない現象の謎が隠されていると僕は思った。


僕はA先生の授業映像を頭の中で甦らせ、それらを注意深く観察してみた。


すると、一つの核となる特徴が見えてきた。

あるいは、自分が無意識的に感じていたことが意識下に浮き上がってきた。


それは「感動をし続けている」ということだ。

感動と言っても、涙を流すとか、驚いて声を上げるとか、そういうオーバーな感動ではない。

心の内側で静かに激しく燃えているような感動だ。

決して分かりやすく目に見えるものではないが、僕には確かな振動として伝わっていた。


A先生は授業を心から楽しんでいた。

その授業をやりたくてやっていた。


研修として求められているからとか、僕らの手本となるように授業を上手くやってやろうとか、そういった義務や見栄や演技が全く見えなかった。


ただただ純粋に子どもの反応を楽しみ、授業が創り出す知的可能性を信じ、子どもたちと行う相互作用的コミュニケーションを深く味わっていた。




その授業後、A先生に質問をする機会があった。


僕はこんな価値ある機会は中々訪れないと思い、勇気を出して質問をしてみた。


「なぜそんなに子供の考え一つ一つに感動できるのですか」


A先生は答えた。


「今までの全てを捨てて、まっさらな状態で子どもに向かうからです。しかしそれは、授業の準備を一切しないということではなく、むしろ綿密に考え、分析し尽くし、その上で忘れるというプロセスが必要なのです」


僕は言葉を失ってしまった。

せっかく聞いたのに、上手く反応することができなかった。

そして後からじわじわと全身に鳥肌が立っていくのを感じた。


確かにA先生の授業では道筋が全然見えなかったし、授業や子どもをコントロールしている様子も一切なかった。


まるで何か大いなるものに導かれるように、授業が創造されていったように思う。


凄まじい勇気だなと思った。


僕には到底できないことだった。


もしも僕が大勢の前で授業をするとしたら、失敗をしないようにしっかり計画を立てて、その計画を頭の中からこぼさないようにして授業をやるだろう。


そして周りから「よい授業だったね」と言われるように、見えない糸で子どもをコントロールするだろう。


情けなさと悔しさが僕の胸に込み上がってきた。


僕もあんなふうになりたいとその時強く思った。

もっと相手と無垢な状態で、無知な状態で向き合いたいと思った。




あの日から、随分と年月が経った。


僕はあの日の誓いを意識してきたのだろうか。


正直言うと、自信を持って意識してきたと答えられない。


でも僕の無意識下に、あの日の光景がちゃんと根付いていたことは確かだ。


これから僕は、奥にしまってあった大切な美意識を拾い上げていく必要がある。


そして拾い上げたものを抱えながら生きていきたいと思う。


無知の領域に飛び込むために、未知なるものを信じていきたい。

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