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考えた5.休業して5カ月め

しばらくnoteを書かなかった。6月に見出し画像のサイズが変わって、描きなおすのがちょっと億劫だな、と思っていたら書かなくなってた。そういうこともあるよね。

さて、「復帰」である。
だがわたしはまだ、休業中の看板を下ろせていない。つまりどういうことかというと、「復帰しようとしてできなかった」のです。

【予告】今日のは長いよ。

当初の予定では、6月〆切の原稿からぼちぼち復帰、と思っていた。
板タブに慣れるためにほぼ毎日さわってペンを走らせ、ゴリゴリと摩耗していくタブペンの芯(フェルト芯)を何本交換しただろう。10本入りを3セット買う必要があるくらい、描いた。

6月にぶちあたったのは、絵を描けてもまんがにならない、という現実。

まんがって、まんがをまんがたらしめるための要素が多い。最終的にいろどりよくバランスの良い弁当にするために、栄養学を学ぶ、みたいなまわりくどいところがある。絵などミートボールのひとつみたいなもんだ。
まんがのテーマ、お話、画面構成、おもしろさ、などを考えていると、わたしに与えられた時間は飛ぶように過ぎてしまって、タイムアップ。

まだ痛みのあるうちに復帰を考えるのは難しいことだったんだな、と、もう1ヶ月休むことにした。

7月に入って、敵は疲労感になった。

7月〆切、お盆進行を確認して、なんとか原稿を提出したかった。
6月、あまりにまんがが進まなかったので、まんがに使える時間を4時間から6時間に増やしていいことにした(勝手に)。
進まないんだから仕方ない、とその時は思った。

まんがはとにかく「何を描くか」が決まらないことには、作業の行程にはいれない。アタリや下絵は骨組みの要素が強いが、本番の絵はだいぶ作業だ。

実は、「何を描くか」の骨組みであるネームは、6月中ごろには完成していて、あとは「本番の絵」を描くだけだった。1日2枚描いたらいいようにして、コツコツやろう、と決めていた。

その、本番の絵でつまずいた。
1コマ描くだけで、めちゃくちゃ疲れて作業が継続できない。
イヤイヤそんなことでは、と踏ん張って無理にペンを入れても、翌朝見るとボロボロでひどいありさまなんである。描きなおし。

やっぱり6時間は多いのか、首が痛むこともあった。そういうときは他のこともできないので丸1日休養。いのちだいじに、首だいじに。
ただ、そうしていると、みるみる日付が怪しくなってくる。

焦ってきて、1コマでいいから進めよう、と思っても、残りの白紙にゾッとせざるを得ない。これじゃ完成しない! どうしても、どうしても作業量が足りないのだった。

最終的に夏風邪をひいて、締め切り直前に初の胃痙攣を経験して(多分原因はストレスと体の冷えのダブルパンチ)、7月〆切に間に合わせる目標はついえた。

かなしかった……。

重ねて目標を達成できないと、自分がダメ人間に思えてくる。
すべての努力を否定して、サボったんだと決めつけたり、自分が下手だからうまく描けないのだ、とか、あーこんな調子でどんどん締め切りに間に合わない人間失格みたいなまま行くのかなとか、でろんでろんのぐでんぐでんになった。とにかく自分が信用できなくて、まんが描くの辞めたら? って自分の気持ちをぼこぼこ殴った。

もともとはその手の「自分イジメ大得意」派だったのを、考え方を変えたり行動を変えたりしてなんとか立て直してきた経緯があるので、まあ昔の腕が鳴ったみたいなやつだった。

いやあしんどかった。

ちょっとここで話を少しずらすが、「自分イジメ大得意」派のひとに、それをやめるためのよいツールがある。わたしはだいぶやめられた。

自己肯定感とか褒めて自分を育てる、みたいなのを聞いても、「褒めるところがあれば苦労はありませんけど?」って思ったり、「そもそも自分の存在意義が疑問ですけど?」「生まれてきてよかったって思ってる人ってホントに存在してるの?」って思ったりしがちな、なんだか理由はよくわからないがやたら自分に厳しいタイプ。

でありつつ、
だいじな友達とか恋人とかがいて、その人とはわりとコミュニケーションがとれていて、相手を思いやることができているようだ、というタイプ。
そういう人たち向けの、ツール。

「その大事な相手にするように自分を扱う(自分を思いやる)」

これです。

これは、お札のように取り出して、心の中で読み上げる考える道具だ。
もし自分が、ふがいない自分をたたく以外、問題の解決方法を知らない場合でも、

「こういうことをあの人にするか……?」(問い)

と一旦考えることで、自分フルボッコを避けることができる、気がする。

「いや……しないな」(答え)

って出てきたら、今やりかかったその自分殴りをやめたらいい。

問いに対して答えを自分の中から探せるから習慣づけもしやすいし、しないな、って感じたときに行動もやめやすい。じゃあどうしたほうがいいかな……って考えられたらものすごい進歩だ。

たいせつな人にするように、自分を扱おう。
と考えるのは、わりと明確な指針になる。休業中に考えたことで一番のおすすめ。

だいじな人がいなくて、思いやりの発露の方法もよくわかんない、という人は別の方法のがよさそう。思いやり深い人の行動を観察するところからではないかな、と思わないでもない。それが偽善っぽくてイヤな場合は、まあもうしょうがないんじゃない。

休業中にこの習慣づけをしていたせいで、2回〆切を守れなかったことに起因する自分フルボッコは、わりと短い時間で終わってくれた。

相方が
「わたしが〆切守れなかったときにも、そんなにつらくあたるの?」
って聞いてくれたのもよかった。あんまり自分を殴るのに夢中で、お札を取り出すのすら忘れていたから。ありがたいなあ……。

それで気持ちを立て直して、気づいたことがふたつ。

1.液タブと板タブの差。
2.環境が完全に変わったのに、「元に戻そう」としている。

1は、文字通り道具を変えたせいで起こった変化を、わたしが甘く見ていたということにもつながる。

板タブは「画面から離れられる」「全体を広く見渡しやすい」「手で絵が隠れない」というメリットの裏返しとして、「絵を描いてる感の低さ」「直感的でない」「なぞり性能が低い」というデメリットがある。

ぱっと鉛筆を持って、紙にサラサラと絵を描く。
手に持ったものから、絵が生まれる、それを目にしながら描くことで自然と生まれていた「絵を描いてる感・自然に描く位置がわかる」などの「感覚」が、板タブには生まれにくいのでは? と思い始めた。

ポインタがここにあるので、ここを描いているのだろう、という「判断」を毎ストロークごとに挟んでいる気がする。

「判断」を繰り返すと、すごく疲れる。
判断コストをなるべく低くしようとして、ノームコアなるライフスタイル(選んで決断しなくていいように、毎日同じものを食べる、着る、など・ごく普通のありふれたものを着用する)がうまれたくらいだ。

猛烈な疲労感のもとはこれか? というのが、今一旦の仮説。
ウエストクッションに板タブを乗せて描いているため、毎回位置が定まらなくて「板タブ特有の感覚」に慣れようがないのも原因かもしれない。


2.の「元に戻そうとしている」からしんどいのだ、という気づきは、思い至って気持ちが楽になった。

もう今までどおりにはできない、と十分に理解して、長く時間をとったり、まんがの描き方や道具を変えたりしてきたはずだったのに、まだ「元に戻そうとしている」ところがあったわけだ。

復帰。

これこそが、最大の「元に戻そうとする力」だった。
どんなにやり方を変えたとしても、「元の場所に帰ろう=復帰しよう」としていたんである。それに引きずられていた。

1日に18時間もまんがを描いていた、あのころの感じをしらずやろうとしていたんだと思う。事実、〆切に間に合わそうとして、6月7月と何度も徹夜した。絵は描けないし、疲労でへとへとにもかかわらず。

できるわけないんである。
もう道具も変わっちゃったし、自分を大事にしようとしたら、命をちぎっては投げちぎっては投げしていたころの行動なんて、とれるわけがない。

つまりわたしは、「復帰をしよう」と考えてはいけないんだな。

元に戻ろうとする力は、変えることに成功したツール、考え方、描き方やり方、すべてをゆがめてもと来た道に突っ込もうとする。

「いつのまにか復帰していた」

が、今の目標です。

気づいたので慌てて書いた。早く寝るはずだったのに。
一気呵成に仕上げたい性質は、なかなか直らなくててごわいなあ……。
道半ば。


健康第一 首をやり、開腹手術をして、また検査で引っかかったり風邪をひいたりで、なにはともあれ健康がほしい! サポートいただきましたらこつこつ体力づくりするために使わせてもらいますね。ありがとうございます!