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「批評とは何か」、についてのマイストーリー

はじめに

こんにちは。上手に文を書けるようになりたい人、みそいちです。
前回、「noteでは批評を書いてみるぞい」と宣言しました。今回は、何故に批評に拘っているのか(拘るようになったのか)を書いてみます。
改めて考えると、私は批評を他者への説明というより、自分への納得を深めるために利用しようとしている節があります。
批評という活動の末に何が得られるのか、何を得ようとしているのか、お伝えしていきます。


私の考える意味での批評

批評とは「対象の価値を明確な言葉にする作業」だと、私は考えています。「宮崎監督の最新作、あれよかったね〜」は感想で、「これこれこういうところから、この様に考えられる」と語ることが批評。これが批評に対する私の捉えです。

批評と似た言葉にレポートやプレゼンテーションなどの言葉があります。批評とそれぞれの相違を明らかにする形で定義すると、私の中での違いは以下です。

  • 批評:対象の(主観的な)価値を語ること

  • レポート:対象の(客観的な)性質を説明すること

  • プレゼンテーション:対象を他者に勧めること

  • 随筆(感想):対象によって喚起された自分の感情について語ること

こうした違いは個人的・便宜的な言葉遊びであり、さして重要ではありません。ともかくも、私はある時から批評に惹かれ、自分もそのような文章を(つまり上に定義するような意味での文章を)書けるようになりたいと思うようになりました。

私の批評への執着はどこから始まったのか?「批評への憧れ」の原体験について思い起こし、以下に記してみます。

そのきっかけ

皆さんは『School Rumble』という漫画をご存知でしょうか?
私は若かりし頃にアニメ放送でこれを見て、かなり心惹かれました。

知らない方に向けた粗筋を引用します。

恋する乙女・塚本天満、高校2年。恋のお相手は同級生の烏丸大路。運命のクラス替えの日、天満の祈りが届いたのか、二人は同じクラスに!! しかし喜びも束の間、彼があと1年で転校することが判明。ゼ~ッタイ転校前に告白するぞ! そんな彼女に恋をしているのが播磨拳児。天満の気持ちをつゆ知らず、あれやこれやとアタックするも、天然ボケな天満は完全スルー! 天満の播磨の片想い、どうなる?‥ってお話です。

https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000011643

機械的に分類すると学園ラブコメです。が、当時たくさんあったであろう学園ラブコメモノと一線を画する”何か”があったように思えました。

当時の私は「オタク的なもの」に対し、正直言って忌避感がありました。現実逃避的で、まっすぐな感じが無いのが嫌だったのだと思います。
『School Rumble』は、どう考えてもそういう「オタク的作品」に属すると思いますが、めちゃくちゃ「オモロい!」と感じました。嫌いから好きに感情が振り切れたので、個人的な衝撃として心に残っています。

『School Rumble』という謎

この転換がなぜ起こったのか、なぜ『School Rumble』は面白いのか。私の中で大きな謎でした。

「キャラが性癖に合致したからだろ」というのは、まぁそうです。めちゃくちゃ癖でした。『School Rumble』のキャラクターが如何に素晴らしいかは、記事を改め語りたいと思いますが、最大の「癖に刺さったポイント」を上げるなら、それは彼女ら彼らの「大人らしさ」です。

当時の私は思春期の真っ只中で、大人になることを渇望していました。とはいえ、身近に丁度よく大人な先輩がいなかったし、丁度よくリアリティのある「大人なキャラクター」にも出会えていませんでした。
そんな中の『School Rumble』ですが、この作品は学園ラブコメでありながら、身体的にも精神的にも「ちゃんとした大人」なキャラクターが描かれていました。外見的には8頭身でメリハリがあり、内面的には責任感があって挑戦的で前向きで、自立していました。(ついでに言うと、物語世界にほとんど大人のメインキャラクターが登場せず、学生ながら働いている設定が多い)。
『セーラームーン』は、女児の熱狂的な支持を受けたそうですが、あれは「守られている弱い私」から「悪人へと戦う強い私」への変身という、少女達の願望を描いていたからこそだと聞いた事があります。私にとっての『セーラームーン』は『School Rumble』で、それは「不器用ながらも友だちと自分の力で真っ直ぐに挑戦する」という自分の憧れを描いていました。

今でこそ『School Rumble』にある卓越を、多少なり言語にすることができますが、当時の私は無理でした。確かに「キャラが可愛い!😍」もあったのですが、それを超える何かがあるとも感じていました。しかしそれが何なのかを伝える・考える方法を知りませんでした。

原体験を振り返る

そんな悩める折に、「スクラン考」というネットブログに出会います。これは漫画研究においてご活躍されている泉信行さんによる論稿です。この論稿が、前段の私の疑問を解きほぐす糸口になり、同時に、冒頭に書いた「批評への憧れ」を作ってくれたのだと、今振り返ると思います。

泉さんが『School Rumble』の面白さをどう解釈したのかは、是非にリンク先を覗いてご確認頂ければと思います。ここでは、彼の論稿が私に何をもたらしたのかをお伝えします。それは以下の衝撃です。

  1. 自分が考えあぐねていた感覚的な疑問について、それを上手いこと説明できる他人がいるという衝撃

    1. → 適切な言葉選びができれば、誰かの心の深い部分の感覚を説明できるのだという原体験を味わう

  2. ラブコメという、当時の自分からしてみればキッチュな題材について、深くその価値を追求している人がいるという衝撃

    1. → 考察の対象は何でもよく、意思と能力があれば適切な考察ができるのだという(当たり前の)理解を得られる

  3. 語彙の広さ

    1. → 当時、私は本を大して読んでおらず、返報性の原理だとかの語彙や概念のフレームワークに乏しかったです。そういうのを考える世界があるのねと知ることになり、社会学系の本を読むきっかけに結びついた


こうして過去の体験を掘り起こすことで、自分が批評において何を達成したいのか、今や、より明確に捉え直すことができます。それすなわち、自分の衝動を言葉により構築し直し、その衝動・感動をしっかりと味わい直すことです。これが、冒頭の"批評とは「対象の価値を明確な言葉にする作業」"と言う定義の裏にある自分の思いであり、追体験したい対象です。

おわりに:さらなる課題

この記事では、自分が批評とはどのような作業であると考えているのかを掘り下げてみました。自分の考える意味での批評の批評です。この執筆を通して、その理解を深めることができ、個人的にある程度満足です。

しかし、ここでの批評の定義は、世間一般で言う意味での「批評」なのでしょうか?


何が批評で何が批評でないか。こうした言語定義を巡る問いは、例えばヴィトゲンシュタインが言語ゲームとして説明したように、非本質的です。世界はそれぞれで語られ、解釈は語り手においてではなく受け手において作られます。

「批評とは何か?」について、私がここで統一的な見解を出すことは(素質的にも原理的にも)出来ないわけですが、我流の「批評とは」にとりあえずの満足を覚える前に、もう少し世間一般での「批評とは何か?」に触れてみるのもいいかもしれません。洗練された他者の考えに触れることで、私たちの実践を、より優れたものに向け磨くことができます。

今回は「私の考える意味での批評とは?」でひとまずの区切りとし、次回「世間が考える意味での批評とは?」を探ることで、この課題へと挑戦していこうと思います。

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