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自己批評の方法を考える

はじめに

こんにちは。上手に文を書けるようになりたい人、みそいちです。
今回は、自己批評の方法を探ります。
批評は文句を言うことではありません。それがどの様な価値を持っているかを考えることです。自己批評(自分批評)は、自分がなぜそのように感じたかを考え、批評対象の価値を考えていく作業です。

自分批評の楽しさや意義については前回記事で書いた通りですが、自分の事を自分を考える循環的な作業は、どの様にして可能なのでしょうか?
今回はこの問題に考えを巡らせてみたいと思います。


(今日の一曲)

自己分析の可能性

最近あまり名前を聞かない、心理学者で精神科医のジークムント・フロイトは、無意識の理論化で勇名を馳せました。「人は分裂してある」というコンセプトは、彼以降に人口に膾炙したと聞きます。

フロイトは[意識・前意識・無意識](あるいは自我とイドと超自我)で、自己をモデル化しました。
少し前には、社会心理学者のダグラス・T・ケンリックが、自己は7つからなるとモデル化し、科学的根拠の豊富さからも話題になりました。自己防衛・親族養育・配偶者獲得など、人は複数のモード(相反する究極の行動目的)を備えており、場面に応じ使い分けます。しかるべき場面が設定されれば、私たちは臆病にも大胆にもなり得ます。

ケンリックの7つの下位自己

いずれにせよ、私たちは分裂しています。この「複数の自分」があるが故に、人は自己批評を古くから楽しんで行っている/行えているのだと夢想します。

分析する自己・される自己

意識をモデル化する理論で私が気に入っているのは、『ファスト&スロー』で有名なダニエル・カーネマンのそれです。瞬時の判断を行うシステム1と、ゆっくりと論理や整合性を組み立てるシステム2。この2つの思考モードの組み合わせで、我々は高度に判断を組み立てているとする理論です。

自分批評をこの理論から図式化すれば、システム1の感じた瞬間的な衝動を、システム2から捉え直すものとも言えそうです。一般用語で言い直すと、「自己の直感を概念化する言語作業」が自分批評と言えるでしょうか。

とはいえ、批評対象とする直感を、前述の「ケンリックの7つの下位自己」で定義される様な本能的な反応に置いてしまうと、それはそれで批評から離れていく気もします。
システム1(直感的刺激)からシステム2(概念獲得)へ。これがどの様に接続されるかは生理現象で、その仕組みは科学が語るものだと思います。私のイメージだと、自分批評の対象は、システム1により喚起された概念について、その核になる部分を取り出す作業です。

イメージ図

敢えて理系文系の違いを考えるのであれば、理系が探求するのは物理的なプロセスで、それは実験から客観的ものとして取り出し議論できるものです。
対して文系が探求するのは言語など、それ自体には究極の合理性が設定不可能な概念の精緻化ではないかと思います。恣意的に・偶然に創造される各種の概念は、妥当性を思考することは可能だとしても、絶対性を設定することは不可能だと思います。だけれど身近で、適切な解釈を見つけられると日常が明るくなります。私個人としては、そこに惹かれてしまいます。

自分批評のフレームワーク

批評とはパッと生まれた概念や感想を捉え直す作業としてみました。これをもう少しプロセス分解すれば、以下の様になるかと思います。

  1. 考察対象となる直感的な概念を拾い上げる

  2. 概念を分析可能な概念を用意する

  3. 概念を概念でリカットする(解釈)

このフローにおける各プロセスの詳細を見直し、自分批評のポイントを抑えてみましょう。

1. 考察対象となる直感的な概念を拾い上げる

最初のステップは考察の対象を選ぶ部分です。第一ステップですから、取り出すイメージはラフスケッチで問題ないと思われます。しかし、あまりに簡素なイメージだけだと、考えを膨らませるのに苦労します。
例えば『君たちはどう生きるか?』を自分批評するとして、「面白かった」から、「何故面白いと思えたのか」を考えることは難しいです。しかし、「どのシーンで面白かったのか・どの様に面白かったのか・その時、自分の関心は何だったのか・何が想起されたのか」など、衝動の背景もまとめて取り上げる事が出来れば「何故面白いと思えたのか」を考えることは易化していくと思われます。
この様に、考察対象となる自分の反応を、背景を含めて見つめ直すことが、まずは大切なのかなと思えます。

2. 概念を分析可能な概念を用意する

私は批評を、ジュエリー制作とのアナロジーで想像します。日常生活という経験の山から、然るべき体験を掘り起こし、それを砕き磨いて、冴えやかに光る自分の価値の核を取り出すこと。
ダイヤモンドはダイヤモンドにより研磨され、無二の輝きを獲得します。批評においても同様に、道具としての他の概念の動員が必要になると思われます。

多くの概念を手にすればするほど、次の批評の完成度を高める可能性を広げます。それは日常をより磨かれた視点から観察可能になることを意味します。
例えば料理を語るなら、それに関する知的概念が有用ですが、距離が近いものばかりだと磨き方が固定化されがちです。最初は、その分野に近い知識を蓄えていくことが何より大事だと思いますが、時にはそこから遠い知識も役立てられるかもしれません。勉強あるのみですね。

3. 概念を概念でリカットする(解釈)

哲学の役割の一つは、新しい概念を作ることにあると聞きます。批評も似ていると思います。哲学が新しく概念を作るとするなら、批評は既存の概念をより手に取りやすく、より見栄えの良いものにする作業なのではないでしょうか。
我々の初期衝動における概念は、しばしば靄がかっていて大仰です。批評はそれをクリティカルなものへと変える作業とイメージします。

批評の楽しさは、そうしたある種の創造にあり、それは「考える」という作業です。考えるとは、ある概念を別の概念と紐付けたり、近い概念との異なりを設定することだと思います。そうしたシナプスの再配線の経験こそが、批評の醍醐味ではないかと思います。
批評を試みた結果、対象が尚判然としないままだったり、脚色はできたものの元の位置と変わっていなかったりした場合、批評としては失敗だったと、個人的には感じます。

おわりに

今回は、前回の自分批評の意義を考える回から一歩進み、自分批評はどうやったら可能になるかを考えてみました。
それは自分の第一直感に光を当て直し、新しい概念を取り出す作業と設定できます。

とはいえ、どう作業をするか(やり方)はあまり本質的でない気もします。
次回以降は、自分批評の実践へと進みますが、そこでの試行錯誤の結果、より大切なポイントを描き出すことができる様になるかもしれません。それを今後に期待して、記事を閉じます。

最後まで読んで頂きありがとうございましたmm
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