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村上万葉さんの作品について


村上万葉さん個展開催おめでとうございます。色々と生活に変化の多い今、まよさんがどんな作品を制作して、展示するのか楽しみにしています。


私が村上万葉さんの作品にしっかりと触れたのは三年ほど前からだ。この記事は、鑑賞者からの視点で、まよさんの作品について書こうと思う。本来はもっと前に記事を書こうとしていたのだが、まよさんの作品は私の中で言語化するのが難しくて、中々文章にできずにいた。今回まよさんの個展もあるのでちょうどいい機会だと思い、記事を書くことを決めた。記事は個人の見解なので、作品の鑑賞を阻害する事なく、作家の良さや面白さを共有できればと思う。

まよさんと作品の話していてよく話題になっていたものの中に、アンフォルメルという芸術運動がある。作家ごとの表現に違いはあれど、自己の存在や身体感覚や実存を意図として含んだ制作を定義したもので、今回、作家との共通点を改めて強く感じた。最近、イヴ=アラン・ボワとロザリンドEクラウス「アンフォルム 無形なものの事典」[1]を一部読んだ。本文で、仏思想家のジョルジュバタイユの論じたアンフォルム(不定形)についての解説、「毛髪や泥、蜘蛛、痰といった、定まった理想の形を持たず、また何かの象徴として詩的な言語に置き換えられることのないような、取るに足りない物質を指す言葉。」に触れていた。理想を持たないと言うことはただそこに発生し、行くあてなく居続けることや外部からの影響を意図なく受け続けることなのだろうか。

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まよさんの作品サイトに載せられた山本伊等さんの文章に、「排泄」[2]という表現があり、それを読んだ時にとても納得がいったを覚えている。思惑や完成形を浮かべず、作る行為(発生する行為)を行った場合、それは排泄というのがふさわしい気がする。もしかしたら、まよさんの制作は「作った」と言うより、「流れた」や「落ちた」と言う方が適切なのかもしれない。そこに作為を持たない行為をどう呼ぶのが適切だろうか。​


まよさんが自分の作品をそれがなんであるか、特別な指示を出さないのは、鑑賞者の中にある、作品と対面した時に現れる感覚を他者の言葉で固着させない為だと思う。私たちが生きる社会には様々な要素があって時にそれは明文化されていたり、二元論的に語られたりすることがあるけれど、実際にそうやって区分して扱うことは物事を簡潔にする為に、ある程度曖昧な部分を切り捨てて見えたものをシンボルとして信用しているようにみえる。

作者の作品には鑑賞に対する指示が見られない。それは作家本人が言っていた作品を鏡のように捉えているということに繋がる。人が鏡をみる際に起こる工程は鏡の前に立つ→図像が鏡にうつる、そしてその像をそのものであると認識する、である。このやりとりは個人的で決定も判断も写り手にある。この鏡とのやりとりのような自立した個人的判断がまよさんの作品の鑑賞には求められるのかもしれない。

学部時代初期の作品には、特定のモチーフを扱う事もあったが(人の身体や赤ちゃんなど)やはりそこでも少ない手数で描こうとする行為などは「物質が全く異なる物に変身する瞬間」つまり鏡の中の姿を自分だと捉える「認識する瞬間」に着目していたからではないかと思った。


私から見たまよさんの作品の面白さは作品が鑑賞者を簡単に鑑賞させてくれないところである。常に鑑賞者側に静かに問いかけているような有り様が、見る側の在り方を、物体を通して明らかにしてくれている。そのやりとりの魅力に引かれて、作品を鑑賞している。

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1)美術手帖 アンフォルムについての記載から引用。文=副田一穂イヴ=アラン・ボワ、ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム:無形なものの辞典』(加治屋健司、近藤学、高桑和巳訳、月曜社、2011)

2)村上万葉のウェブサイトより引用。山本伊等  "coreless"に関する書き下ろしテキスト。

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