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あの電燈の下で

「今度、オンライン忘年会しよう」。

12月に入って、地元の友人のグループラインでそんな呼びかけがあった。幽霊部員も含めた10人ほどのメンバーは、ほとんどが幼馴染。進学や就職で離れ離れになったかと思えば、旅先や同窓会で再会したり、疎遠と親密を繰り返しながらゆるやかな関係をつづけている。

私たちは、会えばいつだって昔に戻ることができた。目の前には、中学校時代のみんなが座っているのだ。少しだけ近況報告なんかをしたら、あとは結局思い出話に終始する。飲み疲れてやることといえば、トランプかテレビゲーム。普段は大人のふりをしていても、中身は何も変わっていない。そんな懐かしさに身を委ねられる時間は、何より心地よかった。

ある日、仲間のひとりに恋人ができた。ちょうど桜の季節だった。ならばと予定していた花見の席に、私たちは彼の恋人を招待した。夜桜の下で、七輪から立ちのぼる煙が揺れる。いつもは饒舌な友人が、照れくさそうに口をつぐんでいる。代わりに初対面の彼女が私たちと乾杯して、質問責めにあった。

ひとしきり騒ぐと、少し夜風が肌寒くなってきて、近所にある私の家へ避難した。母の仕込んだ肴に手を合わせて、二度目の乾杯をする。この頃には酔いが回って、大人数の一体感みたいなものは、次第にほどけてゆく。眠気に負けて炬燵にもぐりこむ者もいれば、部屋の真ん中にマイクを立ててカラオケを始める者もいる。私はこの混沌の瞬間が、たまらなく好きだ。煙草を吸いに外へ出るとき、幸福のつまった宝箱に蓋をするような気持ちで、喧騒を背に玄関の戸を閉めた。

しかし、いつまでも変わらないものなんてないのかもしれない。ただ目の前のことをこなしているだけで充分だった若い日ならば、週末の夜を青春に費やすこともたやすかったけれど、まもなく私たちは人生の駒を進めなければならない季節に差し掛かっている。猶予は残りわずかだ。若さを言い訳に目をそらしていた未来という暗闇が、引っ越しや転職、結婚などで少しずつ照らし出されてゆくとき、どこかで覚悟して、大人になり切るほかない。

いつのまにか集まる機会もなくなり、連絡を取る頻度も減っていった。盆と正月の帰省に合わせて、タイミングがよければ数人で軽く飲んだりはしていたけれど、かつての賑わいと比べると寂しさは拭えない。さらに今年に至っては、帰省することすらままならなかったので、ほとんど誰とも会えていない。本当は年末くらい、帰れると期待していたんだけれど。

画面越しで乾杯するのにも、少しは慣れた。でも、やっぱり画面越しでは伝えられないこともある。発言したあとのわずかな間はハラハラしてあまり好きではないし、同じ景色を共有しながら同じ物を食べる喜びに勝るものはない。とはいえ世の中が変わってゆくのなら、それに合わせるのが道理である。現実を受け入れずに過去のやり方にしがみついていたら、卒業したあとの校舎みたいに、居場所なんてなくなってしまうだろう。

だから私たちは、この2020年が過ぎ去ってゆく前に、きっとどこかの週末で、画面越しの乾杯をする。あの頃、同じ電燈の下で笑い合った仲間と、今はそれぞれの場所で。


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