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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった   4.『日本書紀』からも求めた…卑弥呼・淡路島

 前稿では、邪馬台国の里程距離(水行十日陸行一月)から卑弥呼=淡路島を検証しました。


 
今回は日本書紀の記事を基に、卑弥呼=淡路島の第二弾検証です。
 『魏志倭人伝』と同じ話題
に関する記事が『日本書紀』にあるのを御存知でしょうか?
 この事実から、実は「女王・卑弥呼の都する所」が逆算できる可能性があります! 
 これは『魏志倭人伝』には、場所AからBへの里程距離記事が書かれています。もし、Bの場所が他の情報(ここでは『日本書紀』から)によって明らかになると、Bから里程距離分を逆にいけばAが何処にあったのかを知ることが出来ます。
 Aを「卑弥呼の都する所」とすれば、B(『日本書紀』の記事)が特定できていれば逆に辿ってAの場所比定が達成される訳です。
 この方法で比定した「卑弥呼」について他の独立した情報からも推定できたとするとほぼ確実に求められた(比定できた!)と考えていいと思います。
 では、実際にこの方法を使ってみましょう。
 『魏志倭人伝』の「倭人の条」には、下記のような記述があります。

「倭人の条」【侏儒國】について

 赤枠線の中に、【侏儒國】に関する記述がありますが、この枠内を読み下すと以下のようになる。この部分については、読みについての議論は無いと思われることに留意する。
「女王國の東に海を渡る事千里余(あまり)に国があり、皆倭種である。
 また侏儒国がその南にあって身長は三、四尺である」
ポイントは、侏儒國である。また、これらの関係は、
 (A) 女王國⇒海を東方向に渡る(千里余り)⇒倭種の國⇒(南が)侏儒國
となるので、
 ★【侏儒國】の場所が分かれば逆に辿って女王國に行き着く。
ことが出来る。
 さて、実は『日本書紀』の中にも【侏儒】に関する記述が二か所だけ存在する。そのうち、國などの場所の記載のある【侏儒】の記載は
 ★巻3 神武天皇 即位前紀巳未年二月の条
である。
「…又高尾張邑有土蜘蛛其為人也身短而手足長与侏儒相類皇軍結葛網而掩襲殺之因改号其邑曰葛城…」
との記載である。
 これを読み下すと、
「又、高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛がいた。その風貌は、身の 丈が低く手足が長くて侏儒(しゅじゅ)に似ていた。 天皇軍は葛で網を作って、不意を襲って殺してしまった。それでその邑(むら)の名前を改めて葛城(かずらき:今のかつら ぎ)と言う」
 すなわち、『日本書紀』で挙げた【侏儒】の場所は、奈良県内の葛城山近くである。
(もう一つは、武烈天皇の条で、「侏儒や俳優をはべらせ音楽を奏で、奇妙な遊びをした。酒を飲んで、ふしだらな声をあげた」との記載があるが、これは侏儒という人の身体的な特徴についての記載で場所が特定できるものでは無い)
 また、土蜘蛛と呼ばれる人達は日本各地にいたが、ヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。単一の勢力の名ではない。従って、侏儒國は単一の勢力であり、葛城山近くに土蜘蛛(王権や大王に恭順しなかった)でもある勢力【侏儒國】があったと考えられる。
 ともかく、『日本書紀』記載の【侏儒】が、『魏志倭人伝』(倭人の条)記載の【侏儒國】と一致するとすれば、上に記載した
   (A) 行程を逆に辿れば女王國
という推測が成り立つ。
 当時の一里は、ほぼ60mと統計的に求められているので、
  ①千里   60㎞
  ②千二百里 72㎞
  ③千五百里 90㎞
となる。『魏志倭人伝』(倭人の条)の記載は、【千余里】であるので上記の①~③には当てはまるであろう。
 ここで一例として、
 ★葛城山 ⇒ (西に海を渡って)72㎞
を地図上で調べてみよう。
 下図は、葛城山付近から西に72㎞の距離を示したもので、逆算すると、丁度、淡路島に至ることになる。

葛城山から西へ72㎞

あくまで【千余里】であるので、70~90㎞の範囲で考えれば、淡路島のみが陸地として該当する。
 もう一点、注目すべきは『魏志倭人伝』の侏儒國が奈良県葛城山付近とすると、その北には『魏志倭人伝』の描く國について
 ★國があり、皆倭種なり
とされている。
 『魏志倭人伝』の他の部分については、刻銘に國名を記載しているのに、ここでは、國有り…程度の記載であるので
 ★葛城山の北(奈良県西部)には、名を記載するほどの規模の國は存在し 
  なかった
と考えるのが自然である。
 この事実は、
 ★『邪馬台国大和説』が無い
ことをいみじくも示唆している。これは、古代の奈良県辺りが下図のように、ほぼ湿地のような地勢であることからも理解できる。

古代の奈良県とその周辺

これは、奈良盆地からの排水が大和川のみであるために水捌けの悪い土地柄であったのである。
 もう一点重要な史実が判明します。
 『魏志倭人伝』の作者・陳寿によって【邪馬台国】と【卑弥呼】について書いた事実は、卑弥呼が存命中であった訳です。
 本稿から、倭人の条の記述について、
 ★★陳寿の描いた「倭人の条」は、卑弥呼の没年(紀元後の248年)より
   以前の状況です。卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏
   に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられたとされています。
   女王卑弥呼と『魏志倭人伝』(倭人の条)には書かれていますから、
   238年~248年の間の状況と考えてよさそうです。
 この頃に、葛城山付近に【侏儒國】があって、『日本書紀』では、この【侏儒國】を討伐したのが、【神武天皇】即位前であったと記していますので、
 ★★神武天皇は、即位前の3世紀後半頃以降に活躍した
と言えます。
 次稿は、さらに興味のある『天の岩戸事件』と淡路島の関係を天文学的な解析を使って検証します。
 これによって、卑弥呼⇒天照大神のシナリオが見えて来ます。


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