『水滸伝 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』 ビギナーからマニアまで満足の一冊

 角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス」で中国の古典小説の刊行がスタートしました。その第一弾はなんと『水滸伝』! しかし文庫一冊では無理があるのではと心配になりますが――実際に手に取ってみれば、ある意味入門レベルを超える見事な一冊となっていました。

 「いちばんやさしい「古典」の文庫」と銘打たれて、川ソフィア文庫から刊行されている古典入門文庫レーベル「ビギナーズ・クラシックス」。これまでもこのレーベルで中国の古典は刊行されていましたが、それは思想書や歴史書、あるいは詩が題材となったもので、小説はこれまで刊行されていませんでした。
 その中国の古典小説の記念すべき第一弾が水滸伝というわけですが――いうまでもなく水滸伝は基本となるバージョンでも全百回と、かなりの分量。それを一冊でというのは、結構無理があるのではないかと、まず心配なったというのが正直なところでした。

 その意味では、確かに本書のあらすじ部分はダイジェストにならざるを得ない(それでも、重要な部分は訳文を載せているのはもちろんですが)ところではあります。しかし本書がそれだけで終わっていないのは、解説部分の充実ぶりによるところが大であることは間違いありません。

 そこで本書の編著者の名を見れば、わかる方には納得していただけるのではないかと思います。その名は小松謙――中国の古典演劇や四大奇書に関する著作を発表している中国文学者であります。
 しかし水滸伝ファン的にはなんといっても「図解雑学 水滸伝」――いかにも概説本らしいタイトルとは裏腹に、当時の水滸伝研究の最新情報を豊富に盛り込んだ内容でファンを驚かせた一冊の著者の一人という時点で、大きな安心感があります。

 何よりも著者は現在、作品そのものはもちろんのこと、それに付された李卓吾や金聖嘆の注釈までも全訳した、「詳注全訳水滸伝」全13巻の刊行という壮挙に挑んでいるまっただ中。
 いわば水滸伝を知り尽くし、ビギナーからマニア、いや研究者まで満足させ得る人物であり、本書の著者として、まずこれ以上はないと感じられます。

 そしてそんな著者だけに、本書は水滸伝の成立過程や、当時の文化風俗の紹介、そして「江湖」という世界観の解説に至るまで、わかりやすく、そして大いに充実したものとなっています。

 元々が大衆芸能や民間伝承から始まり、そしてそれが様々な知識人の手を経て成立した水滸伝。その想像以上に複雑で、そして魅力的な成立史だけで、一つの伝奇物語のような面白さがありますが、そこに織り込まれたある種の視点・思想の存在には、そうであったか!? と驚かされるばかりであります。

 そしてまた、そういうものだと普通に読み流していたような登場人物の作中の行動(たとえば酒楼で「牛肉はありません」と言われた李逵が何故激怒したか、など)を当時の社会事情を踏まえて解説したり、あるいは文学的に見た人物描写の妙など、それなり以上に水滸伝には親しんでいるつもりの人間でも楽しめる内容が、本作には満ちています。

 何よりも感心させられたのは「宋江は何故梁山泊のリーダーなのか」という、それこそビギナーからマニアまで必ず疑問に思う、ある意味水滸伝最大の謎についてであります。
 それに対して本書において、宋江自身ではなく、李逵や武松といった彼と親しく接してきた人物の内面の視点から記されるその答えは、明確であるだけでなく感動的ですらある――なるほど、宋江という人物がある意味水滸伝という極めて多様性に満ちた物語の象徴であると、大いに納得した次第です。

 そして、こうした精緻な分析の一方で、わからない部分ははっきりとわからない、と記すのも好感が持てますし――その一方で「意地悪な金聖嘆」という表現や、七十一回以降の戦争パートをつまらないとはっきり記したり、水滸伝ファン的には微笑ましくなるような、ある種の正直さがあるのもまた楽しいのです。

 このように、ビギナーはもちろんのこと、マニアであっても大いに楽しめる期待以上の内容の本書。
 巻末には、さらに水滸伝に興味を持った際に読むべき原典のバージョン等にも触れられており(そこでまず挙げられている書籍についても大いに納得)、知られているようで知られていない物語の全容に初めて触れるのに、そして水滸伝という物語を見つめ直すのに、優れた一冊というべきでしょう。


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