マガジンのカバー画像

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった

31
近世大名は防衛のため城下の街路を、敵が容易に近づけないように屈曲させたという。しかし各地の城下絵図を見るときれいな碁盤目をしてる城下が少なくない。いったい、通説はどの程度、真なの… もっと読む
運営しているクリエイター

#城下町

「輝元 広島に城を移す」をねちっこく読む

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://mitimasu.fanbox.cc/posts/383229 )の宣伝をかねて、本編では取り上げなかった『陰徳太平記』の『輝元卿広島ニ於城ヲ移《ウツ》被事』をねちっこく読んだ一連のポストをまとめたものです。 このエントリは攻城団にポストした「ひとこと」をまとめ、加筆訂正しました( https://kojodan.jp/profile/1462/ )。 ソース1:明治44年の活字起こし ソース1:江戸時

浜松は本当に横に車が二挺立たなかったのか

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://note.com/mitimasu/n/nf71167fb5a63 )の補説です。 城郭入門書では「遠州浜松 広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ」という俗謡を引用して、防衛のためわざと道幅を狭くした根拠とされる例が多くみられます。この俗謡は事実だったのでしょうか?検証してみました。 このエントリは攻城団にポストした「ひとこと」をまとめ、多少の加筆訂正を行いました( https://kojodan.jp/p

城下町古地図の目抜き通り起こし

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://note.com/mitimasu/n/nf71167fb5a63 )の補説です。城下絵図の目抜き通りを可視化し、大名が城下を迷路化しなかった都市はこんなにあるよ!と示したものです。 別の言い方をすると、筆者は何の実績もない人間なので、どんな内容かより誰が言ったかを重視するタイプの人には、なかなか目を向けてもらえないので、地道に証拠でブン殴っていく、という作業のまとめです。 つまりは本編の宣伝をかねた、主張の

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(27) 第6章 総括:街路変化は五業循環

# 第6章 ~総括:街路変化は五業循環~## 6.1. 道が悪くなる理由は、城下町ごとに様々### 6.1.1. 調べてみたら、身もふたもない結論はい、一同、脱力~~~、ズッコケ、着席。楽にしてください。 荻生徂徠が築城についてなんだかんだ述べたあと、 「気の向くままに好きにやればよい」 という、何の役にも立たない結論を出してた、あのやるせなさを、まさか自分が披露する羽目になるとは。 そうなんですよ。各城下町ごとに、事情がさまざまで、すべてに適用できる一行理由なんか、な

有料
100

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(26) 第5章 5.5.~5.6. 囲郭が役目を終える近世

## 5.5. 近世以後:都市民による都市民のための都市### 5.5.1. 人間のための都市へ向かうルネサンス理想都市■ 中世で疲弊したヨーロッパの復活 ふう。疲れました。そもそも5章は、1~4章で証明した 「近世大名は城下町を迷路化なんかしなかった」 という事実を補うための、まとめに向かうための比較対象を事実整理するのが目的だったのに。ただちょっと軽く海外の事例を紹介するだけのつもりで書き始めたのですが。 調べれば調べるほど、定説に矛盾が見つかって、逆に5章のために

有料
100

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(1) 第1章~第2章

 * 第1章 城下は本当に迷路か?  * 第2章 概要、用語の定義、調査手順の説明  (イマココ) (2)https://note.com/mitimasu/n/nc0c3134c67b5  * 第3章 地図調査――浮かび上がる、言うほど迷路じゃない城下町   * 3.1. 地図の出典   * 3.2. 交差点種別の定義について (3)https://note.com/mitimasu/n/n1b9c8ce647d2  * 3.3. 第一印象  * 3.4. 地点別調

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(2)第3章3.1.~3.3. 地図調査について

# 第3章 地図調査――浮かび上がる、言うほど迷路じゃない城下町## 3.1. 地図の出典本章の調査において、城下町の地図は正保城絵図を用いました。 出典: 正保城絵図 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0305000000_6/00 非城下町の地図は明治~昭和前期の国土地理院地図(旧参謀本部陸

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(3) 3.3.~3.4.1. 東北編

## 3.3. 第一印象交差点の定義は終わりました。では、いよいよ地図調査の結果を見ていきます。 「全選手入場ッ!!!!」 ■ 城下町 弘前城 盛岡城 出羽本庄城 久保田城 米沢城 山形城 仙台城 棚倉城 二本松城 白河城 会津若松城 水戸城 古河城 小田原城 村上城 新発田城 長岡城 掛川城 大垣城 膳所城 桑名城 松坂城 大和郡山城 岸和田城 新宮城 篠山城 明石城 津山城 岡山城 備中松山城 福山城 広島城 松江城 丸亀城 大洲城 徳島城 高知城 小倉城 臼杵城 府

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(4) 第3章 3.4.2 関東編

3.4.2. 関東編■烏山城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■沼田城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■笠間城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■ 水戸城 図 3.4.2.1: 水戸城 方格設計は……ありまァす!(ネタが古い)。 えー……。 連郭式の縄

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(5) 3.4.3. 中部編

### 3.4.3. 中部編■ 村上城(新潟県) 図 3.4.3.1: 村上城 若干の乱れはありますが、なんとか平行と直角を守ろうと努力しており、方格設計による都市設計の意思は感じられます。 豊田武氏の『日本の封建都市』では村上城下を放射状街路に分類しています。しかし、この街路を放射状に分類するのは正直、違和感しかありません。 ■ 保内村(現・村上市坂町) 村上城の比較対象は保内村の坂町駅を中心とする2,500m四方としました。 図 3.4.3.2: 保内村(現・

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(6) 第3章 3.4.4. 近畿編

### 3.4.4. 近畿編 ■ 膳所城(滋賀県) 図 3.4.4.1: 膳所城 本丸の不定形を内堀で解消し、二の丸より外では方格設計が強く出ている点が目を引きます。 にも関わらず十字路の比率は低い結果となりました。 なるほど、城下の街路は複雑で、迷ってしまいそうです。 しかし、この城を攻めるなら、普通は琵琶湖から船で接近するのではないでしょうか? 陸路でも湖岸線をたどれば迷わず到達できる城であることは、子供でもわかる理屈です。 ■ 今津町(現・高島市) 比較

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(7) 第3章 3.4.5. 山陽山陰編

### 3.4.5. 山陽山陰編 ■ 津山城(岡山県) 図 3.4.5.1: 津山城 おおむね、方格設計が見られますが、河川に近いエリアでは平行・直角の崩れが見られます。河川地形の影響と考えられます。 さらに、城の西側では正方形に近い地割なのに、北西・南・南東と南西の端のあたりでは短冊形の地割となっています。都市計画の不統一感、はなはだしーい! 目を引くのは南東部の異常に連なる十字路でしょうか。京都に通じる道において十字路が連続するのは丹波篠山城でも見られました。

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(8) 第3章 3.4.6. 四国編

###3.4.6. 四国編 ■ 丸亀城(香川県) 図 3.4.6.1: 丸亀城 見ての通り、はっきりと方格設計が存在しています。 十字路の割合も、交差点総数が50~100の城下としては高い比率です。目抜き通りが南北に貫き、おおむね左右対称である都市設計は、中国大陸から伝わった都城制のフォーマットすら思い起こさせます。 北側の大手門の前に枡形のような広い空間が設けられているのは、人間が戦って防衛するという設計思想かもしれません。もしくは、江戸でもよく見られた火除け地と

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(9) 第3章 3.4.7. 九州編

### 3.4.7. 九州編 ■ 小倉城(福岡県) 図 3.4.7.1: 小倉城 こんなん笑うわ。卑怯! これは卑怯! 「大名が防衛のために城下を複雑化させたって本当?」 と調べてる人間に、小倉城の東半分を突きつけるのは卑怯と言うほかないでしょう。笑うしかないじゃないですか。 一方で西半分、主郭の存在するエリアはどうでしょう? 上級武士の侍屋敷は二の丸にあります。ここは完全に城地であって、方格設計はありません。 三の丸には侍町が出来ています。東側の侍町より1区画が