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浜松は本当に横に車が二挺立たなかったのか

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://note.com/mitimasu/n/nf71167fb5a63 )の補説です。

城郭入門書では「遠州浜松 広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ」という俗謡を引用して、防衛のためわざと道幅を狭くした根拠とされる例が多くみられます。この俗謡は事実だったのでしょうか?検証してみました。

このエントリは攻城団にポストした「ひとこと」をまとめ、多少の加筆訂正を行いました( https://kojodan.jp/profile/1462/ )。

このまとめはミラーです。まとめのオリジナルは

浜松は本当に横に車が二挺立たなかったのか|桝田道也|pixivFANBOX https://mitimasu.fanbox.cc/posts/1125753

です。

# 浜松の道幅問題

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道幅はどうでしょうか。多くの城郭入門書では
「遠州浜松広いようで狭い、横に車が二挺立たぬ」
という戯れ歌を挙げて、防衛のためにわざと道幅を狭くしたと説明されます。

しかし江戸時代の城下絵図ではいずれも、浜松の主要な道路を細道の4倍は幅広に描いています。

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青山御家中配列図の一部

もちろん中には実測地図からほど遠い城下図もあります。
が、道幅の違いを描き分けてる事実は重要です。
もっとも狭い道を一間(1.8m)とすれば浜松の幹線はおおむね三~四間幅であり、四間幅(7.2m)は、ギチギチに詰めれば大八車が8台、並列駐車できる道幅です。

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ネット調べでは浜松の幹線の具体的な道幅は見つけられませんでしたが、馬込橋が三間幅と判明しました。幹線は三間幅(5.4m)以上と推測されます。「横に車が二挺立たぬ」なんてことはありません。

大八車は一般的に荷台の幅が50~60ゼンチ前後、車輪を含めた車幅も1m未満が多かったのでした。
狭いとされる二間幅(3.6m)の道路でさえ、余裕をもって「横に二挺立つ」のです。


したがって『浜松市史』では、この俗謡を「宿の周辺部の、幹線ではない町裏をうたったもの」と述べています。
地元民ですから、城に近い繁華街の道幅が十分に広いという事実は無視できません。
実際の浜松の道幅はどうだったのか?を上手に避けたのは城郭研究界隈です。

しかし『浜松市史』による解釈も疑問が残ります。
新町の町裏の街路が狭いからといって、本町の街路と幹線の道幅が広いのに
「遠州浜松広いやうで狭い、横に車が二挺立たぬ」
という俗謡に皆が納得し、流行するものでしょうか?
私にはそうは思えません。

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一次ソースも手ごたえがありません。ソースは全国の俗謡を集めた『山家鳥蟲歌』(≒『諸国盆踊唱歌』(※同内容別タイトル))です。世に知られた時点で今の形になっていて、変化を追えません。

山家鳥蟲歌 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936191/42

『山家鳥蟲歌』の成立は明和年間です(※柳亭種彦は『諸国盆踊唱歌』の序文で、寛文(1661‐73)のころ後水尾天皇が諸国に勅して集めた盆踊唱歌と書いており、これは江戸時代にはかなり信じられました。しかし現代の研究者は、これは柳亭種彦のホラであり、明和年間に集められた俗謡としています)。
江戸時代の俗謡で明治以降ではありませんから、この歌のいう「車」とは人力車ではなく大八車やべか車であり、車幅は1mに満たないことが、ほぼ確実になりました。ふつうに考えて、幹線はもちろん、よほどの小路以外は横に二台置けます。

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したがって、この俗謡を引用する場合、矛盾に対処しなければなりません。
二十年後の山東京伝は「横に~」以降を無視しました。
前半も「広いようで、(実は)狭い」ではなく「広いようで、また、狭い」と解釈してます。
当人の見方次第で広いようにも狭いようにも見える、それが浜松の趣だと(『文選臥座』序文)。

文選臥座 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921906/4


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中里介山 『大菩薩峠 東海道の巻』

矛盾回避のため「横に車が~」以降を無視し、道幅のことではなく都市の規模だとする人が多かったようです。
明治後期の浜松を「いまや狭いようで広い」と表現した人もいました。
山東京伝も、この「横に車が二挺立たぬ」を無視したグループに入るでしょう。

浜松市史が述べたように、浜松宿の周辺部の新町は町裏に入ると郊外で、旅人の印象ほどは大きくない町だったかもしれません。
太田南畝は蛙の合唱を聞き、(東海道中膝栗毛では)弥二さんが洗濯物を幽霊と間違えるほどの漆黒の闇が旅篭の裏手にひろがるのが浜松でした。

しかし、そういう町は浜松に限りません。
都市周辺部の町裏が田畑や山野なのは、全国どこだってそうです。
現代だってそうです。

ですから、都市の規模だと考えてしまうと、この俗謡は遠州浜松じゃなくても成立してしまいます。
例えば三州吉田でも播州赤穂でも勢州安濃津だっていいわけです。
ところが俗謡に地名違い版は見当りません。

一次ソースである『山家鳥蟲歌』では、複数の地域で出現している俗謡が存在します。
河内の俗謡が摂津で再出したり、因幡の俗謡が備中で再出というのはわかりますが、三河の俗謡が但馬で再出してたりもあるのです。

が、「遠州浜松ひろいようで~」の歌に、地名だけ差し替えた別バージョンは無さそうです。
つまり、浜松に限る理由があったと推測できます。
その理由のヒントは「横に車が~」の部分ということになりましょう。
この部分を無視するのは矛盾の回避としてはよくても、真相究明という観点からはよくなさそうです。


かといって町裏の小路という解釈も難があります。これまた、どこの都市でもそうだからです。


この問題への筆者の最初の推理はこうでした。慣用句で広いようで狭いと言えば、「世の中」が筆頭です。
浜松は東海道のちょうど中間。まだ半分。
日本は広い……と思いきや……

浜松は静岡エリアでは最大の宿場町なので、知人に出会ったり、名前だけは存じていた人を紹介されたりが多かった。
かくして「世の中は広いようで狭い。遠州浜松のように」というフレーズが一時的に流行したのではないか?と。

「遠州浜松広いようで狭い、横に車が二挺立たぬ」
は、それを踏まえて、世の中の話だと思わせておいて、なんでえ、道幅の話かいバカヤロめ、というボケだったのではないかと推理しました。
横に車が~も並列駐車ではなく、道の向きに対して垂直に、というボケと解釈しました。

一見、筋は通っていますが、筆者はこの推理を撤回しました。
件の俗謡以前に、世の中広いようで狭いの例に浜松を用いた文献が見つからなかったのが理由のひとつ。
もうひとつは、出典である『山家鳥蟲歌』は狂歌的なボケのある歌を集めた本ではなかったからです。

『山家鳥蟲歌』は、まず間違いなく、諸国の民謡を収集したものです。
したがって、問題は振り出しに戻ります。つまり、
  * 浜松の街路はおおむね横に車が二挺立つ道幅
  * しかし地元民による歌であり、道幅のことでしかありえない

この問題を解決する明確な証拠を筆者はみつけられませんでした。
そんなものがあったら、山東京伝も中里介山も、俗謡の後半を無視したりはしなかったでしょう。
しかし、もっとも妥当と思える解釈には至ったので、それを述べて、この問題にケリをつけます。

なお、車を荷車ではなく山車や屋台と見て、お祭での歌という解釈もありえます。
巨大な山車や屋台なら、たしかに横に二挺立たぬ、ということもあったでしょう。
が、筆者はこの考えを不採用としました。
山車や屋台を車と言い換える必要がありませんから。
「横に二挺の山車立たぬ」
で、いいわけです。
このへんの(七五調の)やりくりは江戸時代民の方がよっぽど上手ですから、字数のために山車をクルマと言い換えた、と考えるのは、ちょっと弱い。
また「遠州浜松~」の歌が地元の祭りで歌い継がれた形跡は見当たらなかったので。祭りの歌だったら、簡単に廃れるとは思えません。

## 妥当な解釈

解決編といきましょう。
明確な証拠はないので、あくまで筆者の考えるもっとも妥当な解です。
ヒントは『市中案内 浜松唱歌』にありました。

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繁昌。
単純計算での道幅は十分でも、交通量が多すぎるため渋滞が多発し「横に車が二挺立たぬ」状況だったのではないでしょうか?

浜松は静岡エリア最大の宿場町です。
今なお人口で静岡市を上回るほどです。
遠州は農業国・三河と工業国・駿河に挟まれています。
気候が綿花の栽培に適していたので綿花・木綿の出荷も多い。
天竜材(木材)の流通もある。旅人だけでなく、貨物の量も多いのが浜松でした。

例の俗謡は出典から考えて地元の民謡であり、民謡とは多くの場合、労働歌です。
となると貨物運搬を担う車力たちの労働歌の可能性が高い。

次に、車が横に~とあるので、私たちはつい道幅と車幅ばかりに気をとられていました。
しかし、道路は常に直線とは限りません。

浜松城下の中心部は碁盤目街路ですから、直角に曲がることも多かったでしょう。
東海道も直角に曲がってます。
角を曲がるとなると、車幅だけではなく車長も問題になってきます。
そして大八車は車幅は短くても、車長は3m~4mほどもありました。
(※大八車の名前の由来は長さが八尺(2.4m)だから、という説があります。筆者は引手や轅(ながえ)の部分も含めて3m~4mとしました。牛馬に引かせるなら、轅(ながえ)も長くなります)

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以上をふまえ、簡単な図にしたのがこちらです。
三間幅(5.4m)の道路で描いています。
なお、簡略図なので側溝などは考慮していません。
さて、貨物運搬車が運悪く、互いに同時に曲がり角や交差点に進入すると困ったことになります。仮に左側通行のルールがあったとしても。図はうっかり右側通行で描いてしまいましたが(ボケッとしてんだからホントにもー)

その場で旋回できるのが二輪荷車の強みですが、周囲に人がいては、なかなかできません。
交通事故は江戸時代では遠流以上の重罪なのです。
にもかかわらず、江戸時代の道路は車道と歩道が分かれていませんでした。
結果、道をふさがれた通行人により渋滞はエスカレートします。

江戸名所図会を見ると、江戸城に物資を運ぶ要路では左側通行のルールがあったようですが、これが全国ルールだったかは、わかりません。
また、角を曲がりやすくし視界を確保するための「隅切り」もありません。

>隅切り(すみ切り)についてわかりやすくまとめた https://iqra-channel.com/corner-cutting

「隅切り」が当たり前になるのは自動車の普及以後なのです。
昭和7年頃の東京の地図には街路に隅切りが出現しますが、大正6年の東京の地図だと隅切りはめったに見られません。
そして信号機もなければ、誘導するお巡りさんもいないのが江戸時代でした。

つまり、浜松ではヒトも貨物も交通量が増加したため、曲がり角や交差点において「車が横に二挺立たない(すれ違えない)」状況になりやすかったと考えられます。
三~四間幅道路(5.4~7.2m)は初期城下街路の設計としては十分でも、繁昌した城下では不十分な道幅だったのです。

江戸時代後期の浜松は、江戸や大阪や名古屋並みにとは言わないまでも、六間幅や八間幅の街路を作るべき状況だったのです。
しかし道幅の改善は明治を待たねばなりませんでした。
車力たちは、問題を運用方法で回避するハックを編み出さねばならなかったのでしょう。
それが「労働歌を合図に使う」だったのではないでしょうか?
曲がり角の向こうから車力の歌が聞こえてきたら、うかつに進入せず、ちょっと車を止めて確認するという手順を踏めば、立ち往生は避けられます。

現代でも、見通しの悪い曲がり角や交差点ではクラクションを鳴らして自分の存在を知らせましょう、と教えられますね?
まさに、その目的で浜松では曲がり角に入る前に
「遠州浜松広いようで狭い、横に車が二挺立たぬ」
と謡われた。それが『山家鳥蟲歌』に採用されたのだ…と筆者は推測しました。

最初に述べた通り、明確な証拠は発見できませんでした。あくまで筆者の推測です。
ただし、確実なこともあります。
浜松城下中心部の街路は三~四間幅。
これは江戸時代初期には十分に広い道幅であった。
防衛のために道幅を狭くしたという主張は成立しない。

です。

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## ところで、この一連の「ひとこと」は宣伝のためにやってます。

…という風に証拠や推論を重ねて、城下の街路の屈曲のほとんどは防衛以外の理由によることを明らかにした本を書きました。
ひいては碁盤目都市の成立過程にまで踏み込んだオモシロ本です。よろしくゥ!
.
『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』
http://blog.masuseki.com/?p=13620

なお、この補説を本編に追加する予定はありません。基本的には本編の宣伝のためのつぶやきであり、構成を考慮しておらず、証拠固めや論理の展開も本編ほど綿密には行っていないためです。

本編は、電子書籍サイトで購入できます。本記事を興味深く感じられた方は、ぜひ、本編の購入をご一考ください。

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