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八上城と蒲生氏郷町割りヘタ疑惑についてのアフターフォロー

八上城城下は八上内にあった

noteの方にコメントがあり、八上城の推定城下が八上内にあったと教えていただきました。

> 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(17) 第4章 4.6 文献調査-江戸時代後期~昭和③|mitimasu|note https://note.com/mitimasu/n/na56c6a9351e4?scrollpos=comment

それで、こないだ国会図書館に行った際に推定城下図を閲覧しコピーもいたしましたが、そのあとコピーを紛失し、スキャンしたような気もするのだけど保存した場所がわからないという体たらく。

まあ、言うてこのへんが城下だったという図だったので、記憶を頼りに↑に再現した図を貼って、話をすすめます。

私は八上に鈎型路があった理由を土地利用のありかたと、奥谷川の作り出した微高地に解を求めましたが、考えすぎだったのかもしれません。

城下の範囲が図の通りだったとすると、単純に城下の入り口に虎口があったから屈曲させたという可能性もありそうです。

……が。


* 西にだけ屈曲があるのも不自然です

* 敵が馬鹿正直に街道に沿って進軍してくるわけでもありません

* 八上城の位置からして、寄せては別に都市戦を挑む必要がありません

* 土塁または石垣をともないわない屈曲など、焼いてしまえば終わりです

* 小田原の役以前の時代の八上城下では、総構えという概念が希薄だったでしょうから、城下に囲郭があった可能性は低いと推測します


……等々の理由で

「おそらくは虎口を理由に屈曲したのではない」

と私は推測します。

そして、仮に虎口由来の屈曲であったとしても、さんざ繰り返した通り、虎口は城地であって城下ではないので、特に論の撤回や改訂はいたしません。

> 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(17) 第4章 4.6 文献調査-江戸時代後期~昭和③
https://note.com/mitimasu/n/na56c6a9351e4

自説に絶対の自信があるわけではありませんが、どっちにしろ撤回の必要はなさそうなので、なにもしないというやつです。

曽根昌世による縄張りの出典

さて、もうひとつ。

蒲生氏郷町割りヘタ疑惑解明の際に、

> 旧武田家臣、曽根昌世は出てこない
> 彼はこの逸話には出てきていません。
> 『氏郷記』『会津四家合考』ともに、武田家家臣で浪人していた曽根内匠助(曽根昌世)と真田隠岐守(真田信尹)を召し抱えたとあります。「九戸謀反の事」のくだりです。
> が、氏郷が曽根昌世らに命じたのは「信玄流の押太鼓」の指南であり築城ではないのです。
> 曽根昌世に町割や縄張をさせたという記述は『日本歴史文庫.〔11〕 氏郷記 巻下』、『国史叢書. 会津四家合考一 巻六 氏鄕、九戸城を攻めらるヽ事~氏鄕逝去幷秀行家督相續の事』『国史叢書. 会津四家合考二 南部根元記 巻下』の範囲には見つけられませんでした。
> 自分の見落としでないことを祈るぜ、と内心ビクビクしながら断言します。


> 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった (12) 第4章 4.3. 汚名返上!蒲生氏郷は町割下手ではなかった
https://note.com/mitimasu/n/n5fc50757ea1a


……と書きましたが、昨日、曽根昌世に縄張りをさせたとする根拠になる史料を知りました。

その名も『新編会津風土記』。


> 新編会津風土記. 第11−17 - 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763341/8

雑に要約すると、氏郷は広島城を手本にした近世城郭を作ろうとしたんだけど、広島城のようにやたら塀をめぐらすのもアレがソレなんでそこは和州志貫城(ママ)の多門にしようと思って(中略)、縄張りを曽根内匠(昌世)にさせたんだよ。北と西の馬出を拡張して出丸に変えたのはのちの加藤時代のことだよ……という内容です。


さて、これがどの程度、信頼できるかというと……

> 新編会津風土記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B7%A8%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

> 1803年(享和3年)から1809年(文化6年)にかけて編纂され、江戸幕府に上進された。

というあたりからお察しなんじゃないですかね。

まず大前提として、曽根内匠が縄張りをしたというのは、氏郷の死後30年~70年のあいだに書かれた『氏郷記』『会津四家合考』にはない記述であること。

* 氏郷死後、200年以上たってから編纂された地誌であること

* 広島城や信貫山城を目指していながら、甲州流に縄張りさせるという不可解

* 甲州流の特徴である馬出が無い理由を、のちの加藤時代の改変であるとしているあたり、若松城が甲州流の縄張りになっていないことを自覚している

* 甲州流が築城術のブランドになったあとに書かれた地誌であり、提出先の徳川家のお家芸は甲州流であること

等々を踏まえると、簡単には採用できない説であろうというのが私の判断です。

したがって、ただいま紙書籍化に向けて校正中であり改訂中ではありますが、これ盛り込むほどの情報ではないと思いますので、盛り込みません。

以上、アフターフォローでした。

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