見出し画像

アントワーヌ・ベシャンを根拠にVDE(Viruses don’t exist:ウイルスは存在しない)を叫ぶクソ野郎共へ捧げる鎮魂歌

いい加減にしろと言いたい。本人が言ってもないことを言ったことにして正義を気取るのは。ベシャンはウイルス研究をしていない。そういえば千島先生もVDEの根拠に引用されているが、千島先生自体が「自分はウイルスの専門家ではない」ので"あくまで推測に過ぎない"と前置きしている。

こういう連中に特徴的なのは、「〇〇はこう言った」と、要約している第三者の説明を紹介するだけで、発言元の本人の言葉を引用する人物は皆無だということだ。要するに二、三次情報ばっかり見て誰も一次情報を確認しない。


Q.ベシャンは病原体の病原性を否定したのか?

 -パスツールの遺言について

巷でよく引用されるルイ・パスツールの遺言「〇〇は正しかった。体内環境が全てだ。微生物は何もしない。」についてまず不審な点があるのは、〇〇に入る人物の名が情報源によって(クロード・)ベルナールだったり(アントワーヌ・)ベシャンだったりで一貫性がないということだ。ここに統一性がないと後世の捏造の可能性が出てくる為、正確を期するなら

・どちらが正しいのか?
・その遺言を聞き取った人物は誰なのか?

この二点を明確にしておく必要がある。私がこの点を突き止めた文献は、ハンス・セリエ著「The Stress of life(生命のストレス)」だ。

パスツールは、地形(Terrain:病気が発生する土壌)の重要性を認識していなかったとして、多くの敵から激しく非難された。彼らは、パスツールが病気の原因である微生物そのものにあまりにも一面的にとらわれすぎていると言ったのである。実際、パスツールと彼の偉大な同時代人であるクロード・ベルナールとの間には、この点に関して多くの論争があった。前者は病気を発生させるものの重要性を主張し、後者は身体の平衡の重要性を主張した。 しかし、パスツールは血清やワクチンによる免疫の研究で、土壌の重要性を認識していた。いずれにせよ、パスツールがこの点を非常に重要視し、死の床で彼を看取ったA.レノン教授にこう言ったことは、むしろ重要なことである: 「ベルナールは正しかった。 微生物は何でもない、土壌がすべてだ」。
Let me point out here parenthetically that Pasteur was sharply criticized by many of his enemies for failing to recognize the importance of the terrain (the soil in which disease develops). They said he was too one-sidedly preoccupied with the apparent cause of disease: the microbe itself. There were, in fact, many debates about this between Pasteur and his great contemporary, Claude Bernard; the former insisted on the importance of the disease-producer, the latter on that of the body's own equilibrium. Yet Pasteur's work on immunity induced with serums and vaccines shows that he recognized the importance of the soil. In any event, it is rather significant that Pasteur attached so much importance to this point that on his deathbed he said to Professor A. Renon who looked after him: "Bernard avait raison. he germe nest rien, cest le terrain qui est tout!' ( "Bernard was right. The microbe is nothing, the soil is everything.")

-p205
The stress of life

A.Renon教授とやらが調べても出てこないのが惜しい所ではあるが、ともかく臨終を看取った具体的な人物の名が出てきたことは大きい。そして実際はベルナールだったわけだが、ここでベルナールが出てきてしまったことが問題である。ベルナールは生理学者であって微生物学者ではないからだ。これでは「微生物が何もしないこと」の客観的な根拠とは言い難い。

クロード・ベルナール(Claude Bernard 1813–1878)
19世紀フランスの生理学者・解剖学者。
数千人に上る死体解剖の果てに、現代のホメオスタシス(生体恒常性)の前駆的概念として「内部環境の恒常性milieu intérieur」を提唱する。人体実験にまつわる注意事項を記した著書「実験医学序説」は、現代の人体実験の倫理規定となるニュルンベルク綱領やヘルシンキ宣言の大元に当たる。

※余談だが、ベシャンはベルナール批判もしている(※意訳:”お前膵臓からパンクレアチン分離して糖分解能の確認までした癖に何で唾液ジアスターゼと比較してねぇんだ馬鹿")ので、ベシャンはこの二人とも更に一線を画した立場から論争を俯瞰していたことがわかる。

さて、単純に考えて微生物が病気に何も関与していないわけがない。身近な例として、例えばボトックス注射はボツリヌス菌から分泌される神経麻痺作用の細菌毒素を美容に応用した手術であり、この一例を考えても細菌から人体に有害な毒素が分泌される場面があるのは明確な事実だ。

あれれぇぇ~?おっかしいぞぉ?抗生物質って何だっけ~?

「微生物は何もしない」が本当にベシャンの考えだとすると実態に合わない。ではベシャンは間違っていたのだろうか?この食い違いが生じる理由は、代替療法側がベシャンを自説に都合よく引用している為である

Seun, A. (2019). Elucidation of the postulates of the germ terrain duality theory with a specific reference to semantics and the distinction between diseased and damaged tissue. MOJ Women’s Health, Volume 8(Issue 2). https://doi.org/10.15406/mojwh.2019.08.00236
「意味論と病的組織および損傷組織の区別に特化した病原体-地形二重理論の定理の解明」

最後に、ベシャン教授(1908年死去)が自らを病原体理論家と考えていたことに触れておきたい。もしベシャンがタイムマシンで現代を訪れたとしたら、彼は地形理論家ではなく、病原体理論家を自称するだろう。ベシャンとパスツールの唯一の違いは、病原体がどのように、そしてなぜそのようなことをするのか、つまり「メカニズム」についての理論が異なっていたことである。パスツールにとっての「病原体説」とベシャンにとっての「病原体説」は別のものだったのである。残念なことに、パスツールの「病原体説」が、今日の全世界が「病原体説」として理解しているものである。「地形理論」という言葉は、ベシャンを非難する人々によって作られたのだ
In closing I wish to mention that Professor Bechamp (died 1908) considered himself to be a germ theorist. If Bechamp could be brought back to the present by a time machine he would call himself a germ theorist; not a terrain theorist. The ONLY difference between Bechamp and Pasteur was their dissimilar theories on HOW and WHY germs did what they did-in other words the MECHANISM. ‘Germ theory’ meant one thing to Pasteur and another thing to Bechamp. Unfortunately, Pasteur’s version of Germ Theory is what the whole world understands as ‘Germ Theory’ today. The term ‘terrain theory’ was coined by detractors of Bechamp

Ayoade氏はベシャンの晩年の作品「The blood and its third anatomical element(血液とその第三の解剖学的元素)」を読破し、ナイジェリアから孤高に新生物学理論(Cellular Dust Hypothesis:細胞塵仮説)を提唱する侍学者である。「宇宙はマイクロザイマスが創造した」とか(※『ガリレオが、数学は神が宇宙を記述する為の言語だと言うなら、私はマイクロザイマスがその筆記用具だと宣言しよう。』は至極の名言だと思う。)、「人体自然発火現象はマイクロザイマスが犯人か?」という刺激的な論文を他にも多数発表されている。R.ヤングみたいな「私はフランス留学でベシャン本人の論文を確認した」と権威をチラつかせながら病原体の病原性を否定する詐欺師とは違い、一次情報を正確に引用して下さるので信頼できる。そして何より重要なのは、引用にある通り、ベシャン本人は"Terrain(地形)"などという単語は一度も使ったことがないということ。(※2024/2/22追記:「一度も使ったことがない」は誤りでした。Les Microzymas(1883)に表現として使用されていました。大変申し訳ありません。ただ、Terrainが重要だからといって病原体が無害と言ったわけではないことに変わりありません)Terrainは後世の学者が自説の補強の為に(或いはパスツール側の論者が侮蔑の意図を込めて?)、類似の学説を提唱する学者達をカテゴライズする為に使ったと考えられる。

以上より、パスツールの遺言は、セリエの引用にある「微生物そのものにあまりにも一面的にとらわれすぎている」という指摘に表れている通り、確かに自身の仮説の誤りを白状したといえるが、ではそれは微生物が無害という"証明"になるだろうか?ポイントは、パスツールが「一面的に囚われていた」ことにある。

何が言いたいかと言うと、これはパスツールの主観の中での誤りであり、客観的な無害の証明ではないということだ。パスツールという人物の学者としての能力について、モンタギュー・レバーソン(※19~20世紀初頭ホメオパシー医・兼弁護士、ベシャンの書籍の英訳担当)の評価は以下の通りだ。

 ベシャンは生命の自然発生説を否定し、一方のパスツールは自然発生論者であった。後に彼も否定することになるが、彼は自身の実験を理解しておらず、それは自然発生論者であるプーシェに対しては何の価値も持たない。これはマイクロザイマス理論によってのみ回答可能だからだ。更に、パスツールは消化も発酵も理解していなかった。どちらのプロセスもベシャンが解明したのだが、奇妙な因果により(意図的だろうか?)、パスツールの発見となっている。
 ジョセフ・リスターは、自ら認める通り、パスツールから消毒法(これもベシャンの発見)を知った可能性が高いが、これは以下の奇妙な事実により証明されている。リスターが消毒手術を興した頃に大勢の患者が亡くなったことで、「手術は成功したが患者は死んだ」という陰惨な医学ジョークが流行したのである。だがリスターは優れた技術と観察眼を備えた外科医であり、「手術が成功し、患者も生きている」間に、消毒剤の使用量を必要最低限へと徐々に調節したのだった。消毒法を発見したベシャンから技術を習得していれば、当初の患者も救えたことだろう。しかし、原理も理解せぬまま盗作していた学者(?)から又聞きした為、リスターは実践を通して(患者を犠牲にして)適切な技術を習得しなければならなかったのだ。

The blood and its third anatomical element
訳者前書
ジョセフ・リスタ―(Joseph Lister 1827-1912)
19~20世紀初頭の英国外科医。
敗血症が多発していた当時の外科手術に術前の消毒を提案、所謂「無菌手術」の開拓者。術後敗血症死亡率40~60%だった所、無菌手術導入により半減させた…というのが正史だが…聞く相手を間違えたね。1891年にパスツールを参考にしてしまったことを正式に謝罪

要するに、ベシャンの盗作・剽窃 ひょうせつばかりしていたパスツールは学者として全く以て優秀ではなかった(※白鳥の首フラスコ実験も再考が必要ということ)。そんなただの凡人が白状した所で学問上の価値はない。従ってこの遺言はベシャンの理論の無理解に基づき、肝心の「病原体の病原性」問題には何の影響もない。つまり、パスツールが敗北を認めようと(=病原体理論Germ theoryが誤りであろうと)病原体が「無害」ということにはならないのだ

要するにこういうことで、パスツールは最期の瞬間まで判断を誤ったということだ。
Rest in Peace, Pasteur.


 -感染症(Infectious Disease) 改め 発酵病(Zymotic Disease)

話をAyoade論文に戻そう。Ayoade氏曰く、パスツールとベシャンの違いは、「病原体が病気を起こすメカニズムの違い」にある。ならばそのメカニズムとは何か?

ここで両者の経歴を振り返りたい。幾つか関心領域に重複があるが、その中で重要な点の一つが、両者とも「発酵学者」であることだ。パスツールの初期の研究は、大麦の発酵で酒のビールを生み出す酵母、つまりビール酵母の研究であり、その経歴からパスツールはワイン産業から「ワインが酸っぱくなる理由」の調査を依頼された。その原因が細菌汚染にあると判断したパスツールは、有名な低温殺菌法 パスツーリゼーションをベルナールと共同開発してワインの殺菌消毒を提案し、フランス全土にゲロ不味いワインを流通させてフランス国民から不評を買うことになる。現代のフランスワインの世界的な地位は同じく発酵学者であったベシャンの貢献だ。※陰謀論だというなら何故現代のフランスワインは極一部でしか低温殺菌されてないんだろうね?

この発酵の話が実は生物の病気の話に繋がるのだが、両者を繋ぐその鍵は、パスツールの次の「功績」、フランス南部地方に流行していたかいこの微粒子病(Pebrine)の研究にある。イケオジ師匠ことJ.B.デュマ直々の指名を断り切れず(※「自分蚕なんて触ったことないっす!」と返答するが、「先入観がないからいいのだ。」と丸め込まれる)、参考人として紹介された昆虫学者ファーブルを訪問し、あまりの無知っぷりにファーブルがブチキレることになる。

ジャン・バティスト・デュマ(Jean Batist Duma 1800-1884)
19世紀フランス有機化学の重要人物。
若かりし頃の麗しき御姿。晩年は太ましくなられた様子。
パスツールを化学の道に導いた師匠でもある。
アンリ・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre 1823-1915)
「ファーブル昆虫記」のファーブル。
実は"引かぬ!媚びぬ!顧みぬ!"を地で行くつよつよ系の人らしい。

この蚕の微粒子病、正史では"そんな紆余曲折を経るも先入観に囚われない自由な発想により"パスツールが微粒子病の原因菌ノゼマ・ボンビシスを特定して養蚕産業を救ったことになっているが、こんなクズがそんな華々しい解決劇を独力で披露したわけもなく、当然ベシャンの丸パクリである。国費で派遣されたパスツールと違い、自費で研究に向かったベシャンが、流行していた蚕の病には微粒子病(Pebrine)と軟化病(Flacherie)の二種類があることを早々に特定し、嫉妬深いパスツールに因縁をつけられることになる(※正史ではパスツールが微粒子病が解決した後に軟化病調査に着手したことになっている)。一回目の報告会ではベシャンを否定しておきながら二回目の報告会ではシレっと自分の発見の如く報告したとのことだ。挙句その疾患対策に、ベシャンが(※現代も外科手術前の消毒に使用される)フェノール消毒を提案する一方で、パスツールは母蛾検査法(※微粒子病の母蛾から生まれた卵は全て殺処分)を提案したことで、年間3,000万kgの生産量を誇っていたフランス絹産業が200万kgにまで大暴落することになる(※尚、当の本人は「ベシャンのせいで南部地方で消毒剤の物価が上がった」とかいうどうでも良すぎるイチャモンをつけていた模様)。

微粒子病(Pebrine)の蚕
全身に黒点が生じる
症状↓
(i)感染した卵には粘着性ガムがないため、カードボードから剥がれやすい。 (ii) 幼虫は動きが鈍くなる。 (iii)食欲がなく、餌を食べなくなる。 (iv) 幼虫の成長が不均等なため、飼育トレー内の幼虫の大きさがまちまちである。 (v) 感染した幼虫は光沢がない。 (vi) 病気が進行すると、幼虫の体にコショウ粒のような不規則な黒い斑点ができる。そのため、この病気はpebrineと名付けられた。
画像:Biology for everybody
軟化病(Flacherie)の蚕
身体が弾力性を喪失
症状↓
(i) 幼虫の食欲がなくなる。 (ii)幼虫の動きが鈍くなり、成長が遅くなる。 (iii)幼虫の皮膚は弾力性がなくなり、体が柔らかくなる。 (iv)病気が進行すると、幼虫は液状のものを吐き、緩い腸を排出する。 (v)幼虫は動かなくなり、変色し、弛緩する。 (vi)体が黒くなり、死に至る。
画像:Biology for everybody


さて、そんなクズエピソードはこれ位にして(※幾らでもあるが)、問題はこの蚕病の病理に「発酵」が関与することである。

さて、生命自然発生説を否定した人物のはずが、その数年前まで自然発生論者だったりと正史と食い違う主張をする史実のパスツールは、まさにその正史では蚕の微粒子病を早々に寄生性疾患だと特定した筈である。だが、1865年9月、第一回科学アカデミーにおけるパスツールの発表は以下の通りだった。

本来であれば、私はこの場で球状物質の性質について述べたいところだが、このテーマについては、私が行った以上の広範な観察が必要である。しかし、あえて言えば、私の現在の考えは、体細胞は動物質でも植物質でもなく、多かれ少なかれ癌細胞の肉芽腫や肺結核に類似した体であるということである。理路整然とした分類の観点からは、膿疱や黴菌の類ではなく、膿の球、血液の球、あるいは澱粉の粒の類に位置づけられるべきものである。著者が考えているように、それらは動物の体内で遊離しているのではなく、体積が非常に変化し、壁が非常に緩い細胞の中に含まれており、幼虫や蚕の皮膚の下の筋肉組織かその近辺で最初に出現し始めるように私には思われる。このような細胞はどこにでも存在し、たいていは液体や組織の中に遊離して散らばっているのだが、それは顕微鏡観察に使われるスライドグラスの圧力によって、このような細胞が入っている細胞の壁に穴が開いてしまうからである。
» J'aurais désiré pouvoir traiter ici de la nature des corpuscules; mais ce sujet mérite des observations plus étendues que celles que j'ai pu faire. Cependant je me hasarde à dire que mon opinion présente est que les corpuscules ne sont ni des animaux ni des végétaux[1] (2), mais des corps plus ou moins analogues aux granulations des cellules cancéreuses ou des tubercules pulmonaires. Au point de vue d'une classification méthodique, ils devraient être rangés plutôt à côté des globules du pus, ou des globules du sang, ou bien encore des granules d'amidon, qu'auprès des infusoires ou des moisissures. Ils ne m'ont point paru être libres, comme les auteurs le pensent, dans le corps de l'animal, mais bien contenus dans des cellules de volumes très-variables à parois fort lâches, et qui commencent à apparaître à l'origine dans ou près le tissu musculaire placé sous la peau du ver ou du papillon. Si on les rencontre partout, et le plus ordinairement libres et épars dans les liquides et dans les tissus, c'est que la pression des lames de verre qui servent aux observations microscopiques fait crever les parois des cellules où ils sont contenus et qu'ils peuvent alors se répandre irrégulièrement de tous côtés.

Louis, P. (1865). Observations sur la maladie des vers à soie.(蚕の病気の観察について)
Comptes Rendus Hebdomadaires Des Séances de l’Académie Des Sciences., 61, 506–512.
https://www.digitale-sammlungen.de/en/view/bsb10500456?page=510,511




(※以下執筆途中

ここから先は

8,383字 / 2画像

¥ 100

サポートで生き長らえます。。。!!