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第58回 カウンセラーのTシャツと言葉のサラダ 宮崎駿『君たちはどう生きるか』の深層心理学からみた感想

カウンセラーとスタッフの日常会話の記録です。

 Mi代表:深層心理学が専門のカウンセラー。Mitoce代表。
すたっふ:カウンセラー見習いのスタッフ。少々オタクらしい。 



Mi代:宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』を観ました。

すた:どうでしたか?

Mi代:…素晴らしすぎました。

すた:ああ!そうですか。

Mi代:『君たちはどう生きるか』の劇場公開が終わりかける時期ですので、映画館で見るなら今だなと思いまして。公開から日にちが経ったので観客も減ってゆっくり観れるかと思って。それは正解でした。レイトショーに行ったら観客が5人ぐらいでして。一番良い席で集中して観れてよかったです。

すた:内容はどうでした?

 Mi代:私が上からモノを言うようで大変恐縮なのですが、宮崎駿を見くびっていました。

すた:見くびる?

Mi代:あんな作品を創れるのだと感動して。ちょっと今までの作品とは、レベルが違うというか。

すた:たしかに、今までとは雰囲気が違いますね。

Mi代:エンタメではなく、きちんと物語りとして創った作品だなと。一般受けはしない表現になっていましたが。

すた:たしかに私も観に行ったのですが、公開して間もないときでお客さんが結構いたんですけれども。終わったら、後ろにいたカップルが「どういう意味? よくわからない」と言っていて。私は感動して一人で泣いていたのですが。私の友だちに聞いても、そんな感じでしたね。わけがわからない話だったって。だからこそ以前、Mi代表に『君たちはどう生きるか』をどう理解したのか、感想を伺いたいと話したのです。

Mi代:観た人たちがそのような反応になるのは仕方がないと思います。ある意味で神話的であり、きちんとした物語りだからです。純文学やフランス映画に近いというか。 岡田斗司夫さんは芸術的といっていますが。

すた:どういうことですか? 

Mi代:理解するためにはある程度の認識の枠組みというか、アンテナが必要です。私の専門である深層心理学の立場からの理解になりますが神話や物語り(昔話)だなと。神話や物語とは象徴的な表現によってストーリーが展開していきます。いわゆる通常の分かりやすい論理ではない。象徴的な表現の展開を追っていくなかで意味を理解できるというのが神話や物語りです。
映画では『君たちはどう生きるか』の本が出てくるシーンに、同じく積み上げられていた本に『グリム童話』がありました。グリム童話は子ども向けの童話集ですが、内容は象徴的な表現にあふれています。たとえば有名な「白雪姫」でも、なぜ森に入ったのか、小人が7人なのかなど、それぞれに意味があります。そういった象徴的な表現にあふれるのが神話や物語りです。今回の作品はそういった表現方法をとっているので理解しにくい。

すた:Mi代表はどこがよかったのですか? 

Mi代:まさに神話的な作品であるというところですね。それが本当に良かった。宮崎駿のような表現力も影響力もある人が、現代にきちんと神話・物語りを創作し、残してくれたことが感動です。

すた:どういうことですか?

Mi代:どうしても今回は専門的な話になってしまいますが。神話が現代にどういう意味を持つのかというテーマで考えました。それは私が研究しているC.G.Jungの影響ですね。
Jungという人は、哲学者のニーチェの影響を受けています。ニーチェは「神は死んだ」と宣言したことで有名です。これは私なりの解釈ですが、キリスト教的な一神教が人々のこころの拠り所であり、人生の指針であったのが、すでにその力を失ってしまったことをニーチェは見抜いたのだと思います。そしてJungもその考えに賛同していた。では代わりに何をこころの拠り所、軸として生きていけばいいのかと考えたとき、Jungは宗教といういわばシステム化された社会装置となった神を信じるのではなく、もっと原宗教というか、組織化される以前の神そのものに立ち返って考えなければならないとしました。そして神とはある意味では、こころの本質とつながるものだとします。そのため原始的な宗教性を考えるために、キリスト教世界のなかで異端とされて排除されていったグノーシス主義や錬金術にこそ、こころの本質が表われているのだと考えました。いわゆるキリスト教が社会的に組織化されていくなかで排除されていったものたちです。そこにこそ原始的な宗教につながる、本来の神性が残っているという考えです。
Jung派ではこころの本質を考えるために、宗教だけでなく、神話や物語り(昔話)を研究します。それがこころの癒しに深くかかわるので。日本でいえば、河合隼雄が日本の物語や神話を分析していますね。
現代社会をみると神話や物語りが人のこころを支えるものになっているわけでもない。多くの人と共有できるような神話は失われてしまいました。そのため個人それぞれが自分の内なる神話を創り、神話を経験しなければ、本当の意味で自分のこころの真実とかかわることができない。そのため心理療法のツールとして夢分析、アクティヴイマジネーション、箱庭などを使って、自分の内なる神話を創作する作業をします。ただしこれは河合隼雄が活躍した20世紀までの状況かと私は思っていて。
現代人はもう神話や物語りを創ることはできなくなった。それは急速に進んでいると思います。象徴的な表現を使って、深いこころの世界を表現できる人はかなり少ないですし、そういった象徴的な表現を受け取れる人もかなり少ない。もちろん、もともとそれが出来る人が多かったのかどうかについては、証明はできないのですが。
ただし参考として宮崎駿も河合隼雄も良く読んでいた児童文学の世界に目を向けると、ミヒャエル・エンデのような強い物語り性のある作品は少なくなっている。売れる児童書をみると、象徴的な表現で描かれる物語りの本はほとんど売れていなくて、わかりやすいイラスト的な本が売れている。
マリー・ホール・エッツの『もりのなか』のような象徴的な表現がされる絵本は古典として残っていても、新作として出てくることは少ないのが現状です。『もりのなか』は表面的には子どもが森に入って、ただ動物に出会うだけの話ですから、わけがわからない。でも深層がわかってくると、これほど面白い本はないのですが。
そのような現代社会のなかで物語り性の強いアニメ表現をしっかりと追求していたのがスタジオジブリのもう一人の巨匠、高畑勲です。宮崎駿はエンタメを意識した表現を選びますが、高畑勲はエンタメか、物語りかを選ぶとなると、結局物語りの表現を選んでいく。そこが宮崎駿にとっても尊敬すべき対象になっていた理由のひとつだと思います。本来の王道である子どものこころに深く届くアニメ表現であり、『もりのなか』系です。かといって宮崎駿は『火垂るの墓』のような残酷だけれども、社会の実相を描く表現もできない。高畑勲は物語りに対して、ある意味でシビアで現実主義。宮崎駿はそれと比べて、理想主義である意味で矛盾を受け入れようとする優しさや緩みがある。
高畑勲が『もののけ姫』の結末を批判したことで有名ですが、物語りの展開として私は高畑さんの意見の方が正しいと思います。物語りの展開としてはハッピーエンドに無理やり着地させたという印象です。しかし宮崎駿という人物を考えると、あれ以外の結末を出せなかったと思います。
そういったいろいろな思いを抱えながら、私は『君たちはどう生きるか』を観ました。そしたら今回はきちんと神話、物語りになり、きちんとした結末に至った。私は「現代にもきちんと多くの人に届く形で神話、物語りを創作できる人がいるのだ」と本当にうれしく思ったのです。私はこれまで「もう神話、物語りは日本では絶滅してしまった」と思っていた。しかし、失われていなかった。
今回の作品について、すたさんのように、作品がこころに伝わったという人も、かなりいるという事実も知りました。神話や物語りは聴き手を必要とします。聴き手がいないと失われてしまう。それが現代にも物語りを受け取る人たちがいた。そしてその人たちは、たぶん物語りを必要としている。そういった現代社会のこころの深層に触れることができたようで、とても嬉しいのです。

すた:結局、Mi代表はどのようなストーリーと思われたのですか?

Mi代:継承がテーマの物語りですね。何を継承していくかという話です。なぜサギが出てくるのか、義母の妊娠とはどういう意味か、塔とはどのような象徴的な場所か、叔父とは何を表す人物か。サギのモデルは鈴木プロデューサー?叔父のモデルは高畑勲?主人公は宮崎駿の自己像?などといった話は、ほとんど物語りの枝葉の部分なので私はあまり説明しようとは思いません。ただし私なりに理解した物語りの幹だけは話したいです。
私は何を継承するのかと考えました。それは私が言ったような神話を創作する力かと考えたのですが、それは高畑勲、宮崎駿と引き継がれてきたクリエーターの力です。でもそういった個人的経験に内容を還元すると物語りの意味を矮小化させてしまうので避けたい。
そこで私は「人類は神話や物語りによって何を継承してきたのか」と考えたのですね。そしてようやく気付いたのが、いわゆる「たましい」といわれるものだと。たとえば継承と言えば、技術や思想、文化そして生命などがあります。それは『君たちはどう生きるか』にも途中に継承していくものの要素として描かれます。しかしそれはあくまで要素の一つであって、本質ではない。物語りの根底で何が流れ続けているのかと考えたときに「たましいの継承」としか言えないなと思ったのです。
この「たましい」とは何かというと定義が難しい。しかしながら河合隼雄が晩年くりかし「たましい」について話しています。こころではなく「たましい」であると。JungもPsyche(こころ)とSeele(たましい)を使い分けています。そう考えていたときに神話や物語りとは「たましい」を伝えるための器なんだなと気づいて。器を受け取ることで、たましいを継承できる。
今回の映画であれば、叔父の積み木をひとかけら受け取ることで、叔父のたましいが眞人に継承された。つまり私たちは古代から受け継がれてきた「たましい」を継承している。そしてその「たましい」を抱え、どのように今の時代を生きるのか。それは自分で見つけた道を覚悟を持って進み、生きていくしかない。それが宮崎駿からのメッセージだと私は受け取りました。
でもこういった話はわけがわからない話ですし、あまり一般には受けないですね。今回の映画評は賛否両論に大きく割れているようなので。

 すた:でも、たとえばカウンセラーだと誰でも理解できる話だと思います。『君たちはどう生きるか』もカウンセラーだったらわかるのが普通ではないですか。

Mi代:そこはどうかわかりません。最近は認知行動療法のようにストーリー性や象徴的表現を扱わない学派の方もおられるので。しかし、私の立場としては、『君たちはどう生きるか』をみて「わけわからない」というような方が、果たしてクライエントのことを理解できるかという疑問は確かにあります。
クライエントは象徴的な表現にあふれた話をされます。そういたことを理解しないと話やクライエントの生き方全体を理解できない。また私のカウンセリングに来られるようなクライエントは、『君たちはどう生きるか』から伝わってくる「たましい」のようなものを受け取る力が強い方が多いと思います。ただし、そのような方は今の現代社会では生きにくい。私はクライエント自身の生きた「物語り」を聴き、そこに込められた「たましい」を受け取ることに全力を尽くすのが仕事だと思っています。

すた:なんか今日は深い話ですね。 

Mi代:ということで今日はこれぐらいで話を切り上げようと思います。ダメですね、なんかこころの深いところが刺激を受けてしまったのか、涙が止まらなくなってしまうので。でも、今日はすたさんのように若い世代の人が、物語りから何かを受け取っているのが知れてよかったです。

(静かに席を外すMi代表)

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