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海辺のカメラノート 3 発見するということ

「見よう」という意思、「見えてきたもの」

 この暑い時期に、近所だからといって臨海公園に行くのはさすがに躊躇してしまいますが、夕方の太陽が西の低いところにあるのを確認しちよっとでかけます。まぁ散歩のようなもので、写真作品を作ってやろうとか、私は今崇高な実験をしているのだといった感は全くなく、カメラを置いてくるのはなんだか忍びないからという理由で軽いミラーレス機などを小さなバックに入れて自転車を走らせます。思えば、そんなことをこの夏場に限ってもここで延々と40年やっていることになります。もちろん誰も褒めてくれるわけもないので、自身で「よくやるわ」とつぶやくしかありません。

 さて、自転車を走らせていると、たいした出来事や気に入った風景などがなくても、容易に自転車を停めて、なにかをじっくり見たり、写真を撮ってみようという気にもなってきます。これが車ですとなかなかそうもいかないのでしょう。人力で走らせていることの安心感は気まぐれな行動を生んでいるようです。しかし、眼は脳につながっているとしても、決してリラックスしているわけでもなく、私たち写真家にとっては一種のアンテナのようなものであり、常に「見る」ことを自分に課していきますので、態勢としては受信可能の状態をつくっています。そしてその中でなにかを「発見」するという局面が出てきます。
 その「発見」も、決してこれまでなかったものではなく、案外見過ごしていたものであったり、あらためて「見よう」という意思のもとに「見えてきたもの」も含まれます。また「もの」という具体的な対象だけでなく、漠然としたその「状態」もまた発見の対象です。写真を撮るということは、この「発見」に支えられている行為です。ファインダー、あるいは「液晶画面」は限られた範囲(フレーム)の内にそれを一時的に捕獲していきます。そこでは発見したものすべてが確認できているかというとそうでもありません。肉眼では見えてこないものが実はあり、写真の面白さはそれらを後からの提示により、さらに発見できることです。少し実例をあげてみましょう。

 先日、ここで打ち上げられていたものを撮ったあたりです。この日は自転車を走らせながら左に海を見ていました。すると遠くに海水パンツを履いた男性を発見しました。なにをしているかは分かりません。ただ右へ左へとウロウロしていました。遠くからですが、白髪で私とほぼ近い年齢に見えます。わざわざ日焼けをしようというわけではないでしょうし、ちょっと自転車を停め様子を見ていたましたら、単にここでくつろいでいるのだと思えてきました。遠くにビニールシートも見えました。そして男性はおもむろに簡単なストレッチ体操をはじめました。西の低い空にある太陽の光を受けた男性を見ていましたら、なんだか私がそこにいるようにさえ思えてきました。自転車の私はそこで体操する男性とほぼ変わりありません。風景を発見したものの、そこに自分自身をも発見したというのは大袈裟のように聞こえますが正直な気持ちです。写真家は特別な人間としてそこにいるのではなく、写真に写る人の立場になってそこいるという等身大の関係もまた面白いものです。つまり、ここでは眼に写るものから、そんな関係を発見したことになります。
2枚目の写真はそんなことを表明するように、画角がちょっと違っていることに気づかれるはずです。ちょっとした「表し(表現)」です。


写ってきてしまったもの 

 しかしながら、写真はいつもいつもそこまで心情を表さないといけないということでもなく、あまり考え込むことなく、あるいは妙な思いなど断ち切ってシャッターを押したほうがいい場合がほとんどです。そんなもん後から発見すればいいのだよともいえます。そう、写ってきてしまったものを後から発見するという楽しみもあります。例えばこの写真の遥か遠くに飛んでいた飛行機を画面を拡大することから発見できるのもそのひとつ。自分の意思とは別に写ってきたものです。

昨今のデジタルカメラはこうした描写能力があるということはいえますし、写ってきてしまったものに貴重な発見があるからこそ、私たちの「知」はさらに広がりを見せるのではないでしょうか。最後に同じ日に写したもう一枚の写真をお見せします。なんと「フナムシ」です

 普段は敏感に素早く動く「フナムシ」がこの時はゆっくり動いていましたので写真を撮ってみたのですが、なんと「交尾」の最中でした。私の眼ではファインダーと液晶画面でもよく見えませんでした。撮影した画像をPCで処理している時に発見したものです。でもそんなことより、「フナムシ」の背中の模様に目を惹きつけられました。こんなものが写ってきてしまいました。古代より生きている生き物らしい、謎の文様が神秘的です。こんな細かな部分をしっかり発見できるというのも、今のカメラのなせる技といえましょう。発見は「眼」や「意思」だけでなく、こうした物理工学、光学の力にも支えられているのです。

 

古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。