見出し画像

まだ見ぬ荒野にレールを描く ~中国生活奮闘記②~

■これまでの話■
大学卒業後内定先の廃部で中国へ行くまでの話
②中国ハルビン到着から、初めてチームに合流する話
中国生活奮闘記①

怪奇現象

22時が待ち遠しかった。

2009年。ルーキーシーズンを過ごした中国のアイスホッケーチーム「チャイナドラゴン」所属時代、僕が最初に住むことになった「家」であるハルビン体育学院の学生寮では、しばしば"怪奇現象"が起きた。

インターネットが今ほどは発達していなかった当時、部屋にあったLANケーブルを日本から持参したパソコンに繋げることが、唯一の「外の世界」と交信をする方法だった。ただし、ネット環境が最悪だった。回線速度が遅くてページを読み込むことはおろか、メール1通送るのにも相当な時間がかかった。

当時の僕にとって、「外の世界」との交信は唯一心が休まる時間だった。そんな時間でさえ快適に過ごせないその環境に、時々発狂したくなるくらいムカついた。デジタルネイティブ世代でもない僕がこんなことを言うのは女々しく聞こえるかもしれないが、当時の僕からすると、ネットに繋がっていることで自分の存在というものを確認していたのだと思う。できることなら当時の僕に「遅いインターネット」を読ませてやりたい。

そんな鈍くさいネット回線であったが、不思議なことに毎晩、決まって22時を過ぎると鞭を打たれた競走馬のように速度が上がった。まるでそれまで体力を蓄えていたのかのように、メールもそれ以降はサクサクと快適に出せた。ただ、翌日になるとまた遅くなった。「学生寮だから規制か何かか?」とも考えたが、それならば夜更かしの原因になるから22時以降が遅くなるはずだ。僕は不思議な感覚を抱きながらも、「外の世界」と交信した。

ある日、そんな”怪奇現象”の謎が解明される出来事があった。時刻はちょうど22時になる頃だっただろう、たまたま部屋の外の廊下に出ると、そこには中国人チームメイトたちがパソコンを片手に、続々とコーチの部屋に入っていく光景があった。

「ミーティングがあるなんて聞いてない。なんで誰も教えてくれないんだ。」
僕は慌ててその部屋に向かった。普段あまり一生懸命練習していないように見えた中国人選手たちであったが、夜な夜なみんなで集まってミーティングをしていることを考えると、僕は少しだけ嬉しくなった。

部屋に入ると、そこには机が置かれ、その机の上に中国人選手が順番に自分たちのパソコンを重ねて置いていく姿があった。それがミーティングではないことはすぐにわかった。その場にいた中国人チームメイトを捕まえて、何が起こっているのかを尋ねた。

「22時になったらコーチにパソコンを預けなければならない。」

僕は耳を疑った。子供のチームならまだしも、ここはアジアリーグで戦う"大人”たちのチームだ。選手の中には僕よりも一回りも離れた"お父さん"もいる。こんなルールはあんまりだと思った。

理由を尋ねると、「夜遅くまでネットゲームをしないため」であったのだが、僕は何も言わずにそれに従う選手たちを見て驚いたと共に、そこに共産主義の一幕を見た気がした。同時に、その場に居合わせてしまった僕のパソコンまでもが回収されるのではないかと思い、全力で存在感を消しながら部屋に戻った。

かくして22時以降にネットが速くなる謎は解明された。同じフロアにいる選手たちが皆、強制的にネット環境を奪われることで、僕はその恩恵を受けていたのだ。幸い僕は”外国人”として特例でパソコンを回収されることはなかったが、この先ネットゲームだけは絶対にやらないとその時誓った。

路上のおじさん

当たり前なんてない。それを痛感する出来事があった。

チームに合流して数日が経過した頃、僕はまたしてもある問題に直面した。アイスホッケー選手にとって欠かせないモノと言えば、そう、防具だ。僕は学生時代、内定していた西武(SEIBUプリンスラビッツ)から最新防具を毎年もらっていたが、当然のことながら廃部になった2009年はもらえなかった。

チャイナドラゴンからの防具の支給は、スティックわずか1本しかなかったので、ルーキーシーズンは西武から学生時代にもらった法政大カラーの防具を着用して戦った。(途中でいくつか自費購入した)

しかし、アイスホッケーのゴールキーパーの防具は消耗品で、毎日のように練習があるプロならば、通常防具は1シーズンで買い替える。当然、学生時代から使用していた僕の防具もガタがきていた。特に、両足に装着するパッドの消耗は顕著だ。外側はパックの痕で汚れ、縫い目はほつれ、中身は衝撃吸収素材やプラスチック類が柔らかくなってしまう。

正直、安全面うんぬんよりも、プロになったのに学生時代と同じ防具を身に付けることが僕は恥ずかしかったし、悔しかった。

それでも贅沢は言えない。僕は自分で買う金がない以上、その防具を使い続けるほか無いのだ。僕は防具の手入れには人一倍気を使っていた。

ただ、やはり毎日練習をすれば防具の劣化は免れない。ついにパッドとスケートを繋ぐプラスチックの部品を覆う革が、テープで応急措置もできないくらいにビリビリに壊れた。

こんな時、西武だったら栗林さんという凄腕の用具係がいて、すぐに完璧に修理してくれるのにーー。
そんなことを思い出しても何も始まらないことはわかっていた。ただ、その時になって、あの頃自分がどれだけ恵まれた環境にいたのかを思い知った。

チャイナドラゴンが練習するリンクには、奇跡的にスケートの研磨が得意だという製氷車の運転手がいた。ちなみに僕は一度研磨してもらったことがあるが、二度目はなかった…。

僕はダメ元で彼のところにパッドを持って行ってみた。スケートの研磨ができるなら、防具いじりも好きなんじゃないか、というなんとも浅はかな考えからだった。

製氷車の運転手は、僕と2、3しか歳が変わらないように見えた。いつもNHLのキャップを被っていたので、勝手に親近感が湧いた。英語も多少話せたので、会話も成立した。防具のことを相談していたら、なんだかワクワクした気持ちになったことを覚えているが、それがなぜなのかはうまく説明できない。

彼はとても熱心に修理の方法を一緒に考えてくれた。僕は、針と糸を貸してくれれば自分でやると伝えたが、彼は持っていなかった。お昼ご飯の時間が迫っていたので、とりあえずその場での修理は諦め、その日の午後にまた会う約束をした。

いつものキュウリ入りチャーハンとトマトと卵の炒め物を食べた僕は、再び彼の元へ行った。何か修理道具を用意して待ってくれているのかと思ったら、何も用意していなかった。

「一緒に来てくれ。」
彼は僕を連れてリンク敷地外の細い路地へと向かった。ハルビンは田舎町で、一歩路地に入ると、野菜や何の動物の肉かわからないものが路上で売られていた。その路地はツンとする独特の臭いがした。僕はしかめっ面をグッと我慢して奥へと進んだ。

少し大きな道に出ると、彼は立ち止まり、古びたリアカーを改造した路上店を指さした。「修鞋」と書いてあるのぼりが見えた。路上には何足かの革靴と、古びた一台のミシンが置いてあり、その奥におじさんがぽつんと座っていた。それが靴の修理店であることはすぐにわかった。

まさかと思ったが、彼はそのおじさんに話しかけ、僕のパッドの壊れたパーツを見せた。二言三言かわすと、おじさんはおもむろにミシンを動かし始めた。

「おいおい大丈夫か…」僕は大事に使っていた唯一の防具の部品を、目の前でぐちゃぐちゃに壊されるんじゃないかと不安でたまらなかった。大体このおじさんはこの部品が何の部品なのか絶対に把握していない。こんな路上の靴修理に任せるなんてどうかしている。壊れたらどうするんだ。僕は不安と怒りにも似た感情を抱いたが、ただ見ていることしかできなかった。

5分くらい経った頃だろうか、おじさんが「いっちょあがり」みたいな顔つきでこちらを見た。僕は恐る恐るパッドのパーツを受け取り、壊れていないか確かめた。いや、壊れているところを見つけようとしていたかもしれない。正直、壊れていたら文句の一つ二つ言ってやろうと思っていた。

ところが、そんな器の小さなことを考えた自分をすぐに恥じた。パッドのプラスチックのパーツを覆う革は綺麗に縫い合わされ、ほつれもなくなっていた。プラスチック部分がシュートを受け続けて変形していたため、新品とまでは言い難いが、それは見事な修理だった。

感動した僕は、100元(約1,500円)を支払う準備をしていたのだが、おじさんが請求したのは靴修理の正規料金の5元(約75円)だけだった。僕はこの確かな技術を持つおじさんが、1日に何人の客を相手にしているのか気になった。今思えば、僕は世界の貧困格差の実情をあの時見ていたのかもしれないーー。

そう思うと、「こんなのは仕事のうちに入らねぇ」そんな顔つきをするおじさんが急にカッコよく見えてきた。僕は心の中で勝手におじさんを「用具係」に任命し、精一杯の「非常感謝」を伝えた。
※非常に感謝してるという中国語

翌日の練習で、パッドが完璧に直っていることを確認した僕は、製氷車の運転手の彼にも感謝を伝えた。彼は困ったことがあれば何でも言ってくれ、と僕に言った。専門の用具係のスタッフどころか、用具の支給すらないチームで、彼のように好意だけで尽くしてくれる存在は本当に頼もしかったし、嬉しかった。

ーー2021年現在、幸いなことに僕は常任の用具係がいるチームでプレーすることができている。もうあのツンと鼻を刺す臭いの路地を抜けてミシンをかけてもらうようなことは無くなった。

僕は用具係に防具を修理してもらったり、スケートを研磨をしてもらった時には必ず感謝の意を伝える。それは、路上でパッドを修理してくれたおじさんと、一生懸命に尽くしてくれた製氷車の運転手が、「当たり前なんてない」ことに気づかせてくれたおかげだ。

あの日僕は、人生の全ての出来事には意味があり、その中から何を見い出すかは自分次第であることを、見知らぬ中国の田舎町で学んだ気がした。


実際の写真

画像1


皆様のサポートが励みになります!いつもありがとうございます!