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温故知新(17)出雲建(品陀真若王 葛城襲津彦 倭建命) 五十瓊敷入彦命  建稲種命(狭穂彦王) 宮簀媛 白水瓢塚古墳 神功皇后(金田屋野姫命) 丹波道主命 武内宿禰 尾張氏 平群氏 

 品陀真若王(ほんだまわかのおう)は、景行天皇の孫で、五百城入彦皇子の子です。3人の娘(高城入姫命(たかきのいりひめ)、仲姫命(なかつひめ)、弟姫命(おとひめ))を第15代応神天皇の妃とし、次女の仲姫命は大鷦鷯命(おおさざきのみこと 第16代仁徳天皇)を生んでいます。佐伯有清氏は、景行天皇 - 五百城入彦皇子 - 品陀真若王 - 仲姫命が本来の皇統で、応神天皇が仲姫命の入婿として皇統を継承したとみることもできるとしています1)。

 奈良県天理市にある石上神宮の出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)の縁起には出雲建雄神(草薙剣の荒魂)が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」と託宣されたとあり、尾張氏の女(巫女)は宮簀媛です。『伊勢国風土記』逸文では出雲建子命(いずもたけこのみこと)である伊勢津彦神は、櫛玉命なので、宝賀寿男氏が述べているように饒速日命と同神と考えられます。出雲建子命は出雲神の子とされるので、出雲神(出雲建雄神)は加具土命と推定されます。岡山県赤磐市にある石上布都魂神社の祭神は素盞嗚尊で、明治時代までは素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂(ふつのみたま)と伝えられていますが、元は経津主神(ふつぬしのかみ 加具土命)が祭神だったと思われます。

 江戸時代には、 出雲建雄神は石上神宮の祭神である布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、「若宮(わかみや)」と呼ばれていたそうです。「若宮」には、「皇族の子」という意味の他に、「非業の死を遂げた者の霊の祟りを鎮めるため神として祭ったもの」という意味があります。『古事記』では、小碓尊は、五百城入彦皇子と推定される熊曾の弟建(おとたける)を討った後、出雲建(いずもたける)を肥河でだまし討ちにしています。この「出雲建」は、五百城入彦皇子の子である品陀真若王で、持っていた剣は草薙剣と推定されます。

 仲哀天皇の名前の「」は、人と、中(あいだの意)とから成り、長子(伯)と末子(季)の間の子の意を表すとされ、「」は「あわれをそそるようなさま」をいいます。『古事記』の小碓命の西征の段で、倭建命が出雲建を打ち殺した後、「やつめさす 出雲建が佩ける刀 黒葛多纏(つづらさはま)き さ身無しにあわれ」と歌を詠んでいます。仲哀天皇の「哀」は、この歌を詠んだのが、仲哀天皇(小碓尊)であることを暗示していると思われます。

 吉田敦彦氏は、ヤマトタケルが、戦士にあるまじき卑法な手段で敵を騙し討ちにする話は、インド神話のインドラやギリシャ神話のヘラクレス(ヘーラクレース)と類似し、これは、印欧文化圏からの神話の強い影響が、ユーラシアのステップ地帯の遊牧民に媒介され、古墳時代のわが国まで及んだ結果であろうと推定しています2)。

 「元出雲」とも呼ばれる出雲大神宮は、京都府亀岡市にありますが、吉井川上流の岡山県津山市にある津山城と同緯度にあります(図1)。津山城のある鶴山頂上には、往古から譽田別尊、神功皇后、玉依姫を祀る鶴山八幡宮が鎮座していたようです。近くには、大己貴命を祀る美作総社宮があります。

図1 出雲大神宮と津山城を結ぶラインと美作総社宮、新野山形

 「出雲」は、「出雲風土記」によると「八雲立つ出雲の国」と記され、山に日が当たって、たくさんの雲がわき立つ様子から命名されたとする説が有力で、山に囲まれた津山市や美作市付近も「出雲」と呼ばれていたのではないかと思われます。津山市新野山形(図1)は、仁徳天皇の妃で吉備の海部直の娘の黒媛の出身地なので、品陀真若王(出雲建)は、黒媛(弟姫命と推定)の父で、美作国にいたと思われます。押熊王の反乱鎮圧後は、勲功のあった和気氏が美作国造を務めました。品陀真若王 は、丹生氏の系図では「大樹」にあたり、「大樹」は征夷大将軍の唐名です。鳥取県八頭郡八頭町にある大樹寺と関係があるかもしれません。

 『日本書紀』では、日本武尊は熊襲を平定した後、吉備の穴済(あなのわたり、穴海)の神と難波の柏済(河内湖)の神を殺したとあります。日本武尊(小碓尊)が討った吉備の穴済の神は品陀真若王(出雲建)で、難波の柏済の神は、大阪府和泉市にある和泉黄金塚古墳の被葬者と推定される五十瓊敷入彦命と思われます。『日本書紀』では、吉備津彦と武渟川別が、出雲振根(いずものふるね)を討ったとされ、『古事記』に記された出雲建が討たれたときと同様の行為をしたと伝えられています。『出雲風土記』には、出雲郡の「健部の郷(たけるべのさと)」の由来が載っていますが、景行天皇が健部を定めた時、神門臣古祢(かむどのおみふるね)を健部と定めたとあり、『日本書紀』の話は創作されたものと思われます。出雲建が持っていたのは草薙剣と推定され、その後、奪われることがないように、石上神宮の禁足地に埋め、宮中ではその形代を祀り継承することとしたのではないかと思われます。

 『日本書紀』によると、4世紀頃、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀(ななつさやのたち)」一振りが献上されたとの記述があります。石上神宮の神域から出土した七支刀は、百済第13代の王、近肖古王(きんしょうこおう 在位:346年ー375年)が、「倭王旨(わおうし)」に贈ったものとされています。七支刀が贈られたのは、紀年論によると372年にあたり、剣身の金象嵌銘文にある「泰□四年」の文字は、太和(泰和)四年(369年)と解釈する説があります。高句麗好太王の石碑から、神功皇后は391年に新羅征伐に向かったと推定され、『日本書紀』の神功皇后の条で、新羅の王は「吾聞く、東に神国(かみのくに)有り。日本(やまと)と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)在り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。・・」といって降伏しています。1923年に、山口県下関市の彦島で、シュメール文字が刻まれた磐座が発見され、解読した歴史言語学者の川崎真治氏によると、「最高の神がシュメール・ウルク王朝の最高司祭となり、日の神の子である日子王子が神主となり、七枝樹にかけて祈る」と読めるといいます3)。彦島八幡宮境内には、複数のぺトログラフのある神霊石が安置されています。これらの文字は、紀元前2000年から紀元300年頃までの幅広い年代のもので、セム語系(シュメール、バビロニア文字)と北方ツングスのエニセイ文字系(古チュルク語)のものが入り混じったものである事が指摘されています。福岡県北九州市門司区の淡島神社にも「七枝樹」に関するペトログラフがあります。七枝刀は、シュメール(スメラ)の七枝樹を模しているとすると、銘文にある「百兵を避けることの出来る(呪力が強い)」という意味が分かります。また、「東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を造った」と解釈すると、「宣旨」は「奈良・平安時代、天皇の意向を下達すること」という意味があるので、「」は東晋皇帝の「意向」を意味すると推定されます。

 総社市にある作山古墳は吉備で2番目に大きな古墳で、築造された時代は古墳時代中期で造山古墳より少し新しく、造山古墳の次の王の墓と推定され、造山古墳と同じ方向に向いていることから、五百城入彦皇子の子の品陀真若王の墓と推定されます。作山古墳は、本来なら取り除くべき前方部前面の丘陵がそのまま残されていることなどから、古墳築造にかける余力が少なかったのではないかと推測されています。

 杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)の娘は、息長真若中比売で、杙俣長日子王は、ヤマトタケルの孫にあたるとされています。ヤマトタケルが景行天皇とすると、品陀真若王は孫にあたり、神功皇后は息長帯比売命なので、息長真若中比売は神功皇后と品陀真若王の娘である仲姫命と思われます。七枝刀が石上神宮に保管されているのは、神功皇后が、品陀真若王(出雲建)の后だったためと推定されます。仲哀天皇の妃の大中姫(おおなかつひめ)は、父が景行天皇の皇子の彦人大兄五百城入彦皇子と推定)ですが、宝賀寿男氏は、仲哀天皇の后は神功皇后ではなく大中姫がふさわしいとしています4)。

 福岡市東区香椎にある香椎宮(かしいぐう)は、主祭神として、仲哀天皇と神功皇后を祀っています。香椎宮の創建以前に仲哀天皇の行宮(仮宮)があったとされていますが、神宮皇后の宮は、724年に造営され香椎廟(びょう)と称し、『万葉集』巻6には香椎廟、『延喜式』にも橿日廟とあり、平安時代中頃(894年から1068年頃)から神社化したとされます。「」には「王宮の正殿」という意味もあり、木村鷹太郎氏によると、神功皇后の別名は「橿日の宮」で「カシイの宮」即ち「ケヒウス(ケフェウス)」の妻の「カシオピア」のこととしています5)。神宮皇后が「カシオピア」に例えられたとすると、「氣比の大神」は品陀真若王で「ケヒウス」に例えられたと推定されます。神功皇后所縁の和歌山県紀の川市にある氣比神社の主祭神は、品陀和氣尊なので、品陀和氣尊が品陀真若王と思われます。

 建稲種命は、尾張国造の一人で宮簀媛(みやずひめ)の兄ですが、娘の志理都紀斗売(しりつきとめ)は五百城入彦皇子の妃で、品陀真若王の母です。その下の娘の金田屋野姫命(かなたやのひめのみこと)は品陀真若王の妃で(図2)、応神天皇の皇后仲姫命の母です。

図2 尾張氏系譜 出典:https://ameblo.jp/asahonmati/entry-12555872628.html

 応神天皇の母は、気長足姫尊(神功皇后)とされていますが、図2の尾張氏系譜を見ると、応神天皇の母は金田屋野姫命とされています。したがって、金田屋野姫命が神功皇后と推定されます。記紀では成務天皇の后を記していませんが、宮簀媛(日本武尊の妻)と推定されます。熱田神宮に祀られている日本武尊は、宮簀媛を妃としていることから、成務天皇と推定されます。熱田神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、伊吹山、美濃国二宮伊富岐神社、美濃国一宮南宮大社があり(図3)、熱田神宮は、伊福部氏(尾張氏)と関係があると推定されます。

図3 熱田神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと伊吹山、伊富岐神社、南宮大社

 奈良県桜井市の狭穂彦王の墓と推定されるメスリ山古墳と熱田神宮を結ぶラインは、能褒野神社の近くを通ります(図4)。したがって、狭穂彦王は、成務天皇(倭建命)や宮簀媛と関係があると推定されます。

図4 メスリ山古墳と熱田神宮を結ぶラインと能褒野神社

 品陀真若王の祖父の建稲種命は、景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされています。愛知県春日井市にある内々(うつつ)神社は、主祭神は建稲種命で、日本武尊、宮簀姫命を配しています。東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受け、それを聞いた日本武尊が「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりといわれています。久米八腹は、久米直七拳脛の子の久米八甕ではないかともいわれています。この時の日本武尊は、成務天皇と推定されます。

 兵庫県神戸市西区にある白水瓢塚古墳(しらみずひさごづかこふん)は、女性首長の墓と推定され、成務天皇の墓と推定される築山古墳や、造山古墳ともほぼ同緯度にあります。4世紀初頭の築造と推定される白水瓢塚古墳は、同じく4世紀初頭の築造と推定されるメスリ山古墳狭穂彦王の墓と推定)と約4分の1の相似形で、神功皇后所縁の住吉大社が西向きであるのと同様に、前方部は西を向いています。白水瓢塚古墳は「妻塚」とも称され、西側には「夫塚」と称される前方後円墳があるといわれているようです。狭穂彦王(建稲種命)は神功皇后(金田屋野姫命)の父で、宮簀媛の兄の建稲種命と推定され、白水瓢塚古墳は成務天皇の妃の宮簀媛の墓と推定されます。また、狭穂彦王(建稲種命)が叛乱を起こしたというのは史実ではないと考えられます。

図5 白水瓢塚古墳と造山古墳、作山古墳

 池田茶臼山古墳(大阪府池田市)は、古墳時代前期の4世紀中葉頃の築造と推定されていますが、白水瓢塚古墳と同様にメスリ山古墳の約4分の1の相似形で、白水瓢塚古墳とほぼ同形になるので、神功皇后(金田屋野姫命)の姉の志理都紀斗売(しりつきとめ)の墓と推定されます。志理都紀斗売は、『先代旧事本紀』では、尾綱眞若刀婢命(図2)です。籠神社の『海部氏系図』(国宝)では、志里都岐刀邊(しりつきとべ)となっていて、シリウスと月を表しているように思われます。籠神社の絵馬にある太陽と月を囲む籠目紋シリウスを表しているのかもしれません。池田茶臼山古墳は、メスリ山古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図6)。

図6 メスリ山古墳とオリンポス山を結ぶラインと池田茶臼山古墳

 外山茶臼山古墳(桜井茶臼山古墳)は、狭穂彦王(建稲種命)の父の彦坐王の墓と推定されますが、岡山県倉敷市児島にある瑜伽山(由加山)と同緯度にあり(図7)、彦坐王は、吉備と関係があったと推定されます。尾張氏の系譜から、彦坐王(日子坐王)は乎止与命(おとよのみこと)と推定されます(図2)。『国造本紀』では、乎止与命は初代の尾張国造ともされています6)。宝賀寿男氏は、神功皇后は日子坐王の孫としています4)。

図7 外山茶臼山古墳(桜井茶臼山古墳)と瑜伽山(由加山)を結ぶライン

 乎止与命が、尾張氏の祖で彦坐王(日子坐王)とすると、彦坐王の子の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと たにはのみちぬしのみこと)も尾張氏の一族だったと考えられます。『古事記』によると、母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)で、京都府京丹後市久美浜にある神谷太刀宮神社は、丹波道主命が山陰道を巡察した際に、出雲国から八千矛神(大国主命)を招き祀ったのが始まりとされ、神谷神社で八千矛神、太刀宮で丹波道主命が祀られています。京都府与謝郡与謝野町には、丹後では最も古い前方後円墳の白米山古墳(しらげやまこふん)があります。白米山古墳は、貴船神社とギョベクリ・テペと結ぶライン上にあり、同じラインに丹波道主命を祀る神谷太刀宮神社があります(図8)。これは、開花天皇の孫の丹波道主命鸕鶿草葺不合尊(開花天皇)との関係を示していると推定されます。したがって、白米山古墳は、丹波道主命の墓と推定されます。

図8 貴船神社とギョベクリ・テペと結ぶラインと白米山古墳、神谷太刀宮神社、建部神社(与謝野町)

 鳥取市の宇倍神社は、本来は伊福部氏の祖神を祀ったとみられ、伊福部氏と関連する神社(尾針神社(岡山市)、宇倍神社(鳥取市 648年創建)、伊福部神社(兵庫県豊岡市)、伊吹神社(滋賀県高島市)、伊富岐神社(岐阜県)、伊福部神社(愛知県あま市 730年創建))を繋ぐと、伊福部氏は、吉備から山陰を通り、尾張(名古屋)に移動したと推定されます(図9)。

図9 伊福部氏の推定移動ルート

 尾張連氏の本宗(ほんそう 中心となる系統)は、天武13年(684年)に宿禰へ改正していますが、天平6年(734年)の尾張国内には、連姓を称した尾張氏や、カバネを持たない尾張氏が分布し、ほかの氏姓から、尾張宿禰へ改姓した氏族も見られるようです6)。江戸後期に尾張藩が編集した『尾張志』は「はじめ大和国葛城に住居たる地を高尾張といひ」「その同族の分かれて尾張に下り来て住(すめ)る」としているので、葛城から移った尾張氏もいたようです。

 建部神社は、豊受大神を祀っていると推定される瀧原宮とオリンポス山を結ぶラインや、オリンポス山と箱根山を結ぶラインの近くに多く分布し、後者のラインは諏訪大社上社本宮も通ります(図10)。これは、倭建命が豊受姫命(豊受大神)や建御名方命(建御名方神)と同族であることを示していると考えられます。三重県伊賀市大滝に日本武尊、大国主命を祀る建部神社があります。白米山古墳に近い京都府与謝郡与謝野町や、岡山県北部の真庭市藤森や、石川県羽咋郡志賀町などにも建部神社がありますが、由緒や祭神は不明です。与謝野町では板列八幡神社(祭神は誉田別命、息長足姫命)に「弓的の神事」などが伝わっているので、弓の名手だった弟彦公(五百城入彦皇子)と関係があると思われます。長野県塩尻市にある建部神社や長野県東筑摩郡山形村にある建部神社も祭神は不明ですが、山形村にある建部神社の「山形」の地名が、黒媛所縁の岡山県津山市の「山形」と関係があるとすれば、祭神は品陀真若王かもしれません。山梨県北杜市には、諏訪大社の祭神である建御名方命を祀る建部神社があります(図10)。

図10 瀧原宮とオリンポス山を結ぶラインと建部神社(伊賀市、与謝野町)、オリンポス山と箱根山を結ぶラインと建部神社(志賀町、塩尻市、山形村)、諏訪大社上社本宮、建部神社(北杜市)

 美濃国一宮南宮大社といわき市の大國魂神社を結ぶラインは、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る諏訪大社上社本宮を通ります(図11)。南宮大社の北に美濃国府跡があります(図12)。このラインは、大国主命と伊福部氏、諏訪氏が同族であることを示していると考えられます。

図11 南宮大社と大國魂神社(いわき市)を結ぶラインと諏訪大社上社本宮
図12 図11のラインと美濃国府跡、若宮八幡神社(北方町若宮)、伊富岐神社、伊吹山

 大國魂神社(いわき市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、諏訪神社(新発田市)などの諏訪神社や熊野神社(猪苗代町)があります(図13)。ギョベクリ・テペと福島県南会津郡南会津町の若宮八幡神社を結ぶラインの近くには、越後一宮彌彦神社がありますが、境外末社に上諏訪神社、下諏訪神社があります。若宮八幡神社には、品陀和気命(応神天皇)と大雀命(仁徳天皇)が祀られていますが、品陀和気命は孝元天皇(大国主命 宇遅比古命)や諏訪氏と血縁関係がある品陀真若王だったと推定されます。

図13 大國魂神社(いわき市)とギョベクリ・テペを結ぶラインと諏訪神社(いわき市三和町)、熊野神社(猪苗代町)、諏訪神社(喜多方市諏訪町、新発田市)、ギョベクリ・テペと若宮八幡神社(南会津町)を結ぶラインと、彌彦神社、若宮八幡神社(只見町)

 大國魂神社(いわき市)と広島県庄原市の葦嶽山(あしたけやま)を結ぶラインは、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る古峯神社(栃木県鹿沼市)、赤城山、榛名山、剣ヶ峰、元伊勢内宮皇大神社美作國一之宮中山神社の近くを通ります(図14)。したがって、大國魂神社(いわき市)は、倭建命(品陀真若王)とつながりがあったと推定されます。

図14 大國魂神社(いわき市)と葦嶽山を結ぶラインと古峯神社、赤城山、榛名山、剣ヶ峰、元伊勢内宮皇大神社、中山神社

 『日本書紀』によると、応神天皇が立太子の時、武内宿禰と越国に行き、敦賀の氣比大神(伊奢沙別命)と名前を交換したとされています。和歌山県紀の川市猪垣にある気比神社(きびじんじゃ)の祭神は、品陀和氣尊、高津比賣命、市杵嶋姫命、天照皇太神、建速須佐之男命で、神功皇后が小竹宮(粉河町の志野神社)に居られるとき、野猪の害を防ぐために住民に命じて長い垣を造らせ、その後住民が宮を建てて崇敬したと伝えられているそうです。応神天皇が誉田別尊と名前を取り替えたという話は、各地の神社に残る品陀和気命が、品陀真若王であることを隠すために創作されたものと思われます。

 気比神社(紀の川市)とオリンポス山を結ぶラインの近くには、底筒男命・中筒男命・表筒男命と気長足姫命を祀る住吉神社(魚住住吉神社)や、建葉槌命を祀る伯耆国一宮倭文神社があり(図15)、品陀真若王(品陀和気命)と神功皇后や豊玉姫命との親族関係を示していると推定されます。

図15 気比神社(紀の川市)とオリンポス山を結ぶラインと住吉神社(明石市)、倭文神社

 出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもあり、四隅突出墳丘墓の分布状況から、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社は、「大高宮白鳥大明神」と呼ばれ、日本武尊が東征の際に、この地に仮宮を建てて白鳥神社と称したのが始まりといわれます。品陀真若王が、出雲建雄神や、丹生氏の系図にある「大樹(征夷大将軍)」とされたのは、出雲を治めていた品陀真若王が、倭建命の一人として、碓氷峠より北の東北方面に遠征したためではないかと思われます。

 倭建命の東征ルート(図16)にある竹水門 (たけのみなと)が今の塩釜港とすると、竹水門 と碓氷峠を結ぶラインの近くに宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社があります(図17)。大高山神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、JR山形駅近くの山形市諏訪町にある諏訪神社を通ります(図18)。「山形」の由来は、上山市付近を「山方郷」といったことに由来するので7)、品陀真若王(出雲建)の娘の新野山形出身の黒媛と関係があるかもしれません。「山方」は「山手」と似た意味なので関係があるかもしれません。碓氷峠と三重県亀山市の能褒野神社(のぼのじんじゃ)を結ぶラインは長野県佐久市の大河原峠諏訪大社上社本宮を通ります(図19)。

図16 倭建命の東征ルート 出典:http://blog.livedoor.jp/morioka8man/archives/52516788.html
図17  塩釜港(竹水門)と碓氷峠を結ぶラインと大高山神社
図18 大高山神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと諏訪神社、上山市
図19 碓氷峠と能褒野神社を結ぶラインと大河原峠、諏訪大社上社本宮

 諏訪大社上社本宮と能褒野神社と彌彦神社を結ぶラインで三角形を作り、能褒野神社と彌彦神社を結ぶラインと直角になるように、諏訪大社上社本宮からラインを引くとギョベクリ・テペに到達します(図20、21)。これらのラインは、穂高神社のある穂高岳岩屋神社(妙見神社)、信濃国分寺高妻山白山神社(飛騨市)などの近くを通ります(図20)。穂高岳の南西約19kmに大丹生岳がありますが、丹生廣良氏は、安曇氏と丹生氏の関係の深さを思い知らされると記しています8)。岐阜県下呂市金山町の岩屋神社にある岩屋岩陰遺跡は、天体の観測に使用された可能性が指摘されています。妙高市と長野市の境にある高妻山は、ピラミダル(ピラミッドのような角錐)な姿から戸隠富士とも呼ばれ、もしかすると「2万3千年前の世界最古のピラミッド」説のある葦嶽山と同様のピラミッドかもしれません。名古屋もレイライン上にありますが、信濃国分寺と同様に、古くから政治・文化の中心として栄えていたためと思われます。

図20 諏訪大社上社本宮と能褒野神社と彌彦神社を結ぶラインと諏訪大社上社本宮とギョベクリ・テペを結ぶライン
図21 諏訪大社上社本宮と能褒野神社と彌彦神社を結ぶラインと諏訪大社上社本宮とギョベクリ・テペを結ぶライン

 『古事記』や『日本書紀』によると、ヤマトタケルは能褒野(能煩野)で死去したと記され、亀山市の能褒野神社(のぼのじんじゃ)の近くにある能褒野王塚古墳(4世紀末)に葬られたとする説もあります。能褒野神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、建部神社白髭神社があります(図22)。白髭神社の祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、天孫瓊瓊杵尊の降臨の際に道案内をした神として知られています。猿田彦命は白髪を蓄えた老人の姿で、社名の由来にもなっていますが、石川県山形県などの白髭神社には、須佐之男命を祭神とするところもあります。

図22 能褒野神社とオリンポス山を結ぶラインと建部神社、白髭神社

 倭建命が、三重村(三重県三重郡)に至った時に、「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり。」と述べていますが、『古事記』の倭建命の薨去の段に、「海處(うみが)行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ」とあります。三重県三重郡菰野町(こものちょう)と滋賀県甲賀市土山町大河原とを結ぶ武平峠(ぶへいとうげ)は、大河原越えとも呼ばれたようです(図23)。鈴鹿市には、伊勢の国一の宮 猿田彦大本営 椿大神社(つばきおおかみやしろ)があり、椿大神社とギョベクリ・テペを結ぶライン上に相殿に瓊々杵尊を祀る椿大神社の奥宮があります(図23)。椿大神社の奥宮とほぼ同緯度の甲賀市土山町大河原には、月読命を祀る若宮神社があります(図23)。一説に、甲賀五十三家の一つ、大河原氏の祖である足利又太郎を祀っているともいわれますが、「若宮神社」には、非業の死を遂げた怨霊を慰め鎮めるために祀った社を「若宮」と称する例も少なくないようです。

図23 能褒野神社とオリンポス山を結ぶラインと若宮神社、熊野神社(滋賀県蒲生郡日野町)、ギョベクリ・テペと椿大神社を結ぶラインと土山町大河原、椿大神社奥宮、武平峠、菰野町

 『日本書紀』によると、日本武尊は、最初に伊勢国の能褒野陵に葬られましたが、白鳥になり陵から出て、倭国(やまとのくに)を指して飛び、陵に屍骨(みかばね)は無かったと記されています。『日本書紀』では、倭(奈良)の琴弾原、河内(大阪)の旧市邑にとどまったとされたことから、2カ所に白鳥陵(しらとりのみささぎ)が作られました。皇子の墓を「陵」というのは、『古事記』、『日本書紀』においてヤマトタケルの陵のみで例外的とされています。『古事記』では、倭(奈良)の記載はなく、河内国之志紀に留まったされています。『日本書紀』では、倭国(やまとのくに)の都が奈良にあったとするため、倭(奈良)の琴弾原を追加したのかもしれません。白鳥は、白鳥陵からさらに高く飛んで天に上り、陵にはただ衣冠だけを葬りまつったとされ、場所の記載はありませんが、日本武尊の功名を伝えるため武部(たけるべ)を定めたとあります。建部村は、三重県安濃郡(たてべむら)、滋賀県神崎郡(たけべむら)、岡山県御津郡(たけべそん)などにあり、最終的に、倭建命の屍骨は吉備国に葬られたことを示していると推定されます。品陀真若王の墓と推定される総社市の作山古墳(5世紀中頃)は、景行天皇(倭建命)の陵墓と推定される中山茶臼山古墳や、成務天皇(倭建命)の墓と推定される築山古墳(5世紀後半)とほぼ同緯度にあります(図24)。作山古墳総社市)は、備中国分寺(写真トップ)や総社の近くにあり(図25)、かつての窪屋郡に位置し、古来、吉備国の中心地として栄えた地域でした。作山古墳と築山古墳と日本武尊の功名を伝えるための御名代の地「武部」に由来する建部を結ぶラインの三角形の中に「御津」の地名が残り、孝元天皇(倭建命)の陵墓と推定される備前車塚古墳五百城入彦皇子の墓と推定される造山古墳(5世紀前半)があります(図24)。築造時期から、能褒野王塚古墳、造山古墳、作山古墳、築山古墳の順となるので、5世紀後半に、成務天皇(倭建命)の墓を能褒野王塚古墳から築山古墳(瀬戸内市)に移したと推定されます。倭建命(稚足彦尊や品陀真若王)は、各地で歓迎されたと思われますが、熊襲の弟建に例えられたと推定される五百城入彦皇子(弟彦公)は、図16の九州方面に遠征した際に小碓命に討たれたのかもしれません。

図24 作山古墳と築山古墳と建部を結ぶラインと中山茶臼山古墳、備前車塚古墳、造山古墳、御津金川、御津宇垣、御津国ケ原、御津野々口
図25 図24のラインと備中国分寺、総社、造山古墳、楯築遺跡、吉備津神社、中山茶臼山古墳 

 作山古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くには、伊賀武神社・八重垣神社(島根県仁多郡奥出雲町)、韓竈神社(出雲市)、出雲大社摂社の大穴持伊那西波岐神社(出雲市)などがあります(図26)。

図26 作山古墳とオリンポス山を結ぶラインと伊賀武神社・八重垣神社(島根県仁多郡奥出雲町)、韓竈神社(出雲市)、大穴持伊那西波岐神社(出雲市)

 成務天皇は武内宿禰を大臣となし、同日の生まれであることから武内宿禰を寵したとされます。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされますが、『日本書紀』では平群木菟宿禰のみ親子関係が明示され、『新撰姓氏録』では、右京皇別 平群朝臣条等においていずれも武内宿禰の子とされています。『日本書紀』応神天皇条によると、4世紀末から5世紀前半頃の人物と推定される葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わしています。

 奈良県生駒郡平群町に、平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)があり、この社名は「平群(地名)に鎮座する紀氏神の社」という意味であり、元々は紀氏(きうじ/きし)の氏神を祀る神社であったことが知られ、武内宿禰の母が、丹生氏系図にある神別紀氏の山下影日売(孝元天皇の妹と推定)です。武内宿禰と関連が推測される古墳として、5世紀初頭頃の築造と推定される奈良県南西部の葛城地方にある室宮山古墳があります。室宮山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインは、伊和神社摩耶山の近くを通るので(図27)、室宮山古墳の被葬者は、大国主命(孝元天皇)や瓊瓊杵尊と関係があると推定され、伝承や年代などから、武内宿禰と推定されます。

図27 室宮山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインと伊和神社、摩耶山

 武内宿禰は越前国一宮氣比神宮(福井県敦賀市)や、筑後国一宮高良大社(福岡県久留米市)を始めとする各地の神社で祀られていますが、高良大社では、祭神の「高良玉垂命」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されています。高良玉垂命は、孝元天皇(倭建命)の妃の豊玉姫と推定され、倭建命が八幡神と推定されることから、成務天皇(倭建命)に仕えた武内宿禰が、八幡神とされた応神天皇や仲哀天皇にも仕えたという伝説が生まれたのではないかと思われます。

 対朝鮮外交で活躍したとされる葛城襲津彦は、武内宿禰の子とされていますが、「葛城」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものとされています。葛城の「」は、ツヅラフジなど、丈夫なつる性の植物をいうので、品陀真若王(出雲建)の刀に巻いていた「黒葛(つづら)」と関係があると考えられます。蔦(つた)は、ディオニュソスの聖樹です。

 『百済記』には、壬午年(382年)に倭国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとした記録があり、通説では「沙至比跪」は、葛城襲津彦とされています。高句麗好太王の石碑から、神功皇后は391年に新羅征伐に向かったと推定され、神功皇后は、品陀真若王の后と推定されることから、葛城襲津彦は、品陀真若王と推定されます。神功皇后の三韓征伐の「三韓」とは、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)とも考えられていて、品陀真若王(出雲建)が讃王(小碓命)に騙し討ちにあったことと関係があると思われます。「神功紀」49年には、将軍荒田別と鹿我別が新羅攻撃を命じられ、彼らが平定した国の名前が列挙されていますが、金容雲氏は、これらは洛東江西南流域の伽耶諸国で、神功皇后は伽耶を敵視していたとしています9)。仲哀天皇(稚武彦命 讃王と推定)の母である蠅伊呂杼の出身地が、伽耶の「伴跛(はえ)国」であれば説明がつきます。

文献
1)佐伯有清 2003 「日本書紀Ⅰ」 中央公論新社 
2)吉田敦彦 1979 「ヤマトタケルと大国主」 みすず書房
3)並木伸一郎 2017 「眠れないほどおもしろい「古代史」の謎」 王様文庫
4)宝賀寿男 2008 「神功皇后と天日矛の伝承」 法令出版
5)木村鷹太郎 2001 復刻版 「星座とその神話」 八幡書店 
6)鈴木正信 2022 「古代氏族の系図を読み解く」 吉川弘文館
7)谷川彰英 監修 47都道府県 地名の謎と歴史  一個人 2021年 05 月号増刊 KKベストセラーズ
8)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会
9)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館