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温故知新(19)一言主神(大長谷若建命) 倭讃(麛坂皇子 香坂王) 倭珍(忍熊王) 倭済(毗有王) 安康天皇(倭興 蓋鹵王) 雄略天皇(大長谷王 倭武 昆支王) 武烈天皇(武寧王 元恂) 葛城氏 秦氏 東漢氏 賀茂(鴨)氏 大伴氏

 第21代雄略天皇の大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと) は、稚足彦尊(成務天皇)や、品陀真若王と同様に、名前に「わか」が含まれることから、若くして非業の死を遂げたと思われます。雄略天皇の名前には、『古事記』では、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)と大長谷王(おおはつせのみこ)がありますが、『古事記』で即位前の雄略天皇に対してみられる「大長谷王」という表記は、異例とされています。また、『日本書紀』では、有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)と大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)があります。したがって、雄略天皇とされた人物が、2人いた可能性が考えられます。

 葛城の地は大和政権の初期における中心地であったとされ、葛城一族は武内宿禰を祖として鴨・蘇我・巨勢氏などの豪族に分かれたとされています。奈良県御所市にある葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は、一言主神を奉斎する神社の総本社で、葛城之一言主大神と幼武尊(わかたけるのみこと)を祀っています。一言主神を事代主命と同一視する説もありますが、『先代旧事本紀』では、一言主神を素戔烏尊の子としています。葛城一言主神社は、熊山遺跡丹生川上神社中社を結ぶライン上にあります(図1)。丹生川上神社中社には、神武天皇(孝霊天皇と推定)が天平瓦と御神酒の器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した顕彰碑があります。丹生川上神社の祭神は、水神の罔象女神(みづはのめのかみ)で、瀬織津姫丹生都比売命と同神と思われます。

図1 熊山遺跡と丹生川上神社中社を結ぶラインと葛城一言主神社

 葛城一言主神社の近くにある高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、高皇産霊神、市杵島姫命、菅原道真を祀っていますが、元々は社殿後背の白雲岳を神体山に祀った神社とされ、オリンポス山と高天彦神社を結ぶラインの近くには、熊野大神宮(鳥取市国府町)や丹生川上神社下社があります(図2)。したがって、一言主神は、孝霊天皇(須佐之男命)や丹生氏と関係がある大長谷若建命と推定されます。葛城一言主神社は、『延喜式』神名帳での祭神は1座で、同帳に「葛木坐一言主神社」と見えるように元々は一言主神1柱を祀った神社とされます。

図2 オリンポス山と高天彦神社を結ぶラインと熊野大神宮(鳥取市国府町)、葛城一言主神社、丹生川上神社下社

 葛城山とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには摩耶山大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)があります(図3)。これは、葛城山と瓊瓊杵尊や仁徳天皇との関係を示していると推定されます。

図3 葛城山とギョベクリ・テペを結ぶラインと摩耶山、大仙陵古墳

 『古事記』によると、葛城山で雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団(一言主神)と出会い、天皇は恐れおののいていますが、『日本書紀』では、雄略天皇と一言主神は意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになります。さらに『続日本紀』では、雄略天皇は、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処しています。これは、葛城一族の大長谷若建命と、大長谷王(雄略天皇)との関係を暗示していると思われます。

 高知市一之宮に、味鋤高彦根神と一言主神を祀る土佐一之宮 土佐神社があります。土佐神社や土佐国分寺跡は、丹生都比賣神社と幣立神宮を結ぶラインの近くにあります(図4)。『古事記』の葦原中国の平定の段で、天若日子の喪を弔う時に、阿遅志貴高日子根神(阿遅鉏高日子根神)が登場し、天若日子の両親に天若日子と間違われ、乱暴を働きます。天若日子は一言主神を表し、応神天皇の曾孫で、允恭天皇の第五皇子の大長谷若建命(幼武尊)と推定され、味鋤高彦根神は大長谷王を表しているではないかと思われます。

図4 丹生都比賣神社と幣立神宮を結ぶラインと土佐神社、土佐国分寺跡

 822年に編纂された『日本霊異記』には、文武天皇の代に、葛城山の一言主大神が人に乗り移って、「役の優婆塞が陰謀を企て天皇を滅ぼそうとしている」と告げ、役行者が伊豆に流されたとあります。その後、朝廷の恩赦があって、701年には朝廷の近くに帰ることが許されたようです。701年には、編纂が進められていた「大宝律令」が完成しますが、文武天皇の夫人は、藤原不比等の長女の藤原宮子です。

 中国の歴史書の『晋書』には、倭王讃(さん)の朝貢が記され、513年前後の『宋書(そうじょ)』には、讃、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の倭の五王の外交が記されています。一般的には、倭王武は、雄略天皇とされています1)。『晋書』には、高句麗と倭国が同じ年に東晋(317年 - 420年)に貢物を献じたことが記されています。これは『梁書』にある413年の倭讃の遣使とみられていますが、晋安帝の代には、讃王(仲哀天皇と推定)は、すでに亡くなっていると考えられます。河内春人氏は、高句麗の偽使としています1)。

 高句麗の第20代長寿王(在位:413年 - 491年)は、414年に父である第19代好太王(こうたいおう)の事績を記した碑文(好太王碑)を建造しました。碑文によると、もともと百済と新羅は高句麗の「属民」だったのが、倭が391年に「臣民」としたとあります。396年に高句麗は百済を攻め、百済は一旦は降伏していますが、399年に百済は倭と和通し、404年に倭は高句麗軍に惨敗しています2)。『日本書紀』によれば408年の高句麗使節の来朝により倭との講和状態が実現し、427年に高句麗は王都を平壌に遷して南下(百済の攻略)に転じています3)。好太王碑の碑文を訳した鈴木靖民氏は、この戦闘について、倭国はこの敗北によって、それまでの最高首長の系統が権威を失い、王系の交代を招いたとみられるという見解を述べています4)。

 渡部昇一氏によると、百済や朝鮮南部に住みついた民族は南方系で、九州に来た民族と同じと考えられ、中国の古文献では「倭」といっているようです5)。百済の第18代腆支王(てんしおう)は、397年 (応神8年)に人質として倭国に赴き、阿莘王が亡くなった後、帰国し百済王として即位しています1)。近年の研究で腆支王の夫人は倭人であることが有力視されている八須夫人です。『三国史記』によると、東晋の滅亡と同じ420年に、腆支王が亡くなり、息子の第19代久尓辛王(くにしんおう)が即位しています(在位:414年- 429年)。『日本書紀』には、428年から461年まで倭と百済との通交がみえないようです。久尓辛王の母親は近年の研究で倭人であることが有力視されている八須夫人で、『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分註によれば、久尓辛王の薨去後、太子として王位を継いだ毗有王は、実際には久爾辛王の異母弟であると記されているようです。

 421年に、宋(南朝)の武帝から倭讃と名乗った王の使節が官爵を受けています。「」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形で、解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」を表すので、倭国王が自ら倭姓を名乗ったとは思われないので、渡来人が大きな影響力を持っていたと推定されます。425年に讃は宋に再び使節を派遣しています(図5)。応神天皇の崩御年は430年頃と推定されるので、倭讃が421年と425年の宋へ遣使したのは応神期と推定されます。

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図5 倭の五王関連年表 
出典:週刊朝日ムック 歴史道 Vol.20 「古代天皇の謎と秘史」 朝日新聞出版

 425年の使者は「司馬曹達」という人物で、当時の倭では、姓を持たないのが一般的であるため、「司馬」は、軍事に関する官職名を指すという説や、曹達は中国系渡来人や中国系朝鮮人であるとする説があります。司馬氏は、東晋の皇族で、宋(南朝)の第2代少帝の皇后は司馬茂英(しば ぼうえい、393年 - 439年)です。飛鳥時代の代表的仏師であった鞍作止利は、祖父が司馬達等で、仏教の信仰者で「草庵」を大和国高市郡に営んだといわれています6)。高市郡は、元は「今来郡」で、東漢氏系の人が数多く居住していました。司馬曹達は大和国高市郡にいたのかもしれません。『日本書紀』応神37年に、「阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を呉(くれ)に遣わし、縫工女(きぬぬひめ)を求めしむ」とあり、「呉」は中国南部を指し、宋(南朝)と推定されます。応神8年が397年なので、応神37年は426年と考えられ、倭讃の425年の宋へ遣使に相当すると推定されます。

 438年に讃の弟の珍が宋に到来し、讃が死んだことを伝え、「六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」などに任じられたい旨を要求していますが、河内春人氏は、珍の要求には百済王への対抗意識がある述べています1)。金容雲氏は、珍はかつての辰国系の王が治めたすべての国の支配権を要求し、高句麗に対する支配権は主張していない点が重要としています7)。これは、珍の要求に高句麗が関わっていたためと推定されます。

 和気神社の由緒によると第11代垂仁天皇の皇子の鐸石別命の曾孫である弟彦王は、忍熊王を和気関に滅ぼしたとされています。崇神天皇の陵墓と推定される浦間茶臼山古墳は3世紀末の築造なので、1世代を25年とすると崇神天皇から5世代後の弟彦王は、5世紀前半と推定され、忍熊王も5世紀前半に亡くなったと推定されます。「珍」は「済」が宋に朝貢する443年までには亡くなっていると考えられます。「讃」と「珍」は兄弟とされるので「讃」が麛坂皇子(香坂王)で「珍」が忍熊王と思われます。麛坂皇子は、仲哀天皇(讃王)の後を継いで、讃王となっていたと思われます。

 忍熊皇子は、第14代仲哀天皇(讃王と推定)と、彦人大兄命(五百城入彦皇子と推定)の娘の大中姫との間に生まれた皇子で、第15代応神天皇の異母兄です。皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田(瀬田川)で身を投げたとされ、『古事記』には「いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほ鳥の 淡海の海に 潜(かづ)きせなわ」という歌が載っています。「」は「水の中にもぐる」という意味で、「沈潜」は「水底深く沈むこと」なので、「珍」は「沈」のことで忍熊皇子を暗示しているのかもしれません。

 『宋書』では「讃-珍」2代と「済-興-武」3代の間の系譜が記されていないことから、「讃-珍」と「済-興-武」との間に王統の断絶があったとする説もあり、倭王武の上表文によれば、済と興は高句麗を討とうとしたとされています。5世紀の中頃、河内の日下(草香)には、仁徳天皇の子の大草香皇子がいて、有力な天皇の後継者候補でしたが、穴穂天皇(安康天皇)と対立して暗殺され、穴穂天皇は、大草香皇子の妃である中磯皇女(長田大郎皇女)を奪って自分の后としています。この時、高句麗の好太王の後裔との伝承をもつ難波吉士日香香(蚊)の親子も殉死しています8)。

 『古事記』中巻には、難波吉師部の祖とする伊佐比宿禰(いさい の すくね)が忍熊王の将軍に任命されたとあります。『新撰姓氏録』によると、難波吉士氏は「大彦命之後也」とされていますが、「吉士」は、古代朝鮮において「王」・「首長」を意味する称号「於羅瑕」(「鞬吉支」)が渡来人の称号として日本で用いられ、姓や氏ともなったと推定されています。413年の倭讃の遣使には、高句麗が係わっていたようなので、421年から438年の「讃-珍」の遣使には、難波吉士日香香の親子が関係していたと推定されます。

 第19代允恭天皇は、仁徳天皇の第四皇子で、允恭天皇の第一皇子の木梨軽皇子は軽大娘皇女との近親相姦を理由に廃太子され、伊予国へ流され、允恭42年に穴穂皇子(後の第20代安康天皇)によって討たれています。これは、『古事記』『日本書紀』に衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)として記されています。允恭天皇の后で、木梨軽皇子の母の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、応神天皇を祖父、稚野毛二派皇子を父とし、意富富杼王(第26代継体天皇の曾祖父)の同母妹に当たります。

 埼玉県の稲荷山古墳でみつかった「金錯銘鉄剣」にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や、熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘にある「獲□□□鹵大王」は、雄略天皇にあてる説が有力とされています。稲荷山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには榛名神社(群馬県高崎市)や縄文時代の真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町)があり(図6)、稲荷山古墳の被葬者は縄文系の氏族と推定されます。また、江田船山古墳は、幣立神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあるので(図7)、江田船山古墳の被葬者は、大長谷若建命(一言主神)と同族と推定されます。

図6 稲荷山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインと榛名神社、真脇遺跡
図7 幣立神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと江田船山古墳

 雄略4年(460年)に百済の第21代蓋鹵王(がいろおう 在位:455年-475年)が(『日本書紀』によると)弟の昆支王(こんきおう 軍君)を人質として日本に派遣しています。太刀銘にある「鹵」は、蓋鹵王の「鹵」と同じで、鉄剣や太刀銘にある「獲」と合わせた「鹵獲(ろかく)」は、戦地などで敵対勢力の装備品(兵器)や補給物資を奪う意味になります。蓋鹵王の「」は、草のふたで「おおう」意を表し、「隠す」という意味も含まれると思われます。宮の名前は「斯鬼宮(しきのみや)」と表し、大和政権などの体制に従わない人々の意味を持つ「鬼」が使われています。森浩一氏は、稲荷山古墳の鉄剣の銘文は、日本化が強くうかがえ、渡来人が作文した可能性はほとんどないとみています8)。大彦命の後裔(多氏)にとって獲加多支鹵大王は「鬼」すなわち渡来人だったと推定されます。直木孝次郎氏の著書に、江田船山古墳の鉄剣の所有者は蓋鹵王に従属していたとする説が紹介されています9)。

 百済は、近肖古王以来、中国南朝とのみ通好してきましたが、472年に蓋鹵王が初めて北魏に対して使節を派遣し、高句麗の非道を訴えていますが、475年に高句麗の長寿王は、百済の漢城を陥落させて蓋鹵王を殺害しています。昆支王は、461年に倭国に遣わされ、16年間に及ぶ滞在で、倭国王家の女性と結婚し、息子5人をもうけています。『日本書紀』によると雄略天皇23年(479年)に「百済の第23代文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されています。金容雲氏は、雄略天皇が東城王(末多王)を百済に送るに際し、あたかも肉親の別れを暗示するかのように頭を撫でて深い情を表しているとしています7)。

 末多王が第24代東城王(とうじょうおう 在位:479年 - 501年)となった年に雄略天皇も亡くなったとされているようですが、『三国史記』の 百済本紀文周王には、文周王(ぶんしゅうおう 在位:475年ー477年)3年(477年)4月に「王の弟の昆支を拝し内臣佐平と為す」とあり、同年7月に「内臣佐平の昆支卒す」とあるようです。韓国学会の典型的な解釈には、「昆支は日本に行っていたが、本国百済で政治的危機に陥った文周王を補佐するため母国に帰り、すぐに権力争いに巻き込まれて暗殺された」というものがあるようです7)。雄略天皇が亡くなったのは百済の第22代文周王が暗殺された同じ年の477年と推定されます。

 高句麗の長寿王は北魏に朝貢していましたが、長寿王が亡くなった時、北魏の第6代皇帝孝文帝(在位:471年-499年)は長寿王を哀悼し使者を派遣しています。長寿王は、宋(南朝)にも朝貢していましたが、宋は、歴代の皇族が内紛を繰り返した結果衰退し、479年に滅亡しています。

 『宋書』には、倭の五王の済の子が興で、興の弟が武であると記されていますが、『三国史記』によれば、昆支王は蓋鹵王の子で、文周王の弟とされています9)。478年に倭武(雄略天皇)が、宋の皇帝宛に奉呈した高句麗の無道を訴える上表文には「にはかに父兄をうしなひ」とあり3)、475年に蓋鹵王が亡くなっているので、倭武は昆支王で、父は蓋鹵王(倭興)、兄は文周王と推定されます。倭武は、上表文に「東のかた毛人五十五国を征し、西のかた衆夷六十六国を服し、渡りて海北九十五国を平らぐ。」と記していますが1)、毛人が毛野を表すとすれば、崇神天皇と同族のはずです。また、倭武(雄略天皇)の支配は東北地方には及んでいなかったと推定されます。安康元年(454年)頃を境にして、歴日の拠り所が唐の儀鳳暦から、宋の元嘉歴に変わったとする説があり、百済では元嘉歴を国歴としていたことからも10)、462年の『宋書』倭国伝の倭興(安康天皇 在位:454年ー456年頃 に比定)は蓋鹵王と推定されます(図5)。

 『宋書』倭武上表文に「祖祢(祖禰)」と見えることから、倭武の祖は「祢」(倭祢)で、字形から第19代久尓辛王(くにしんおう)と推定されます。443年と451年の倭済の宋への朝貢時の百済王は、第20代毗有王(ひゆうおう 在位:429年-455年)なので、倭済は蓋鹵王(倭興)の父である毗有王と推定されます(図4)。『梁書』は倭珍を記さず、『宋書』に載っていない倭弥を挙げて、倭弥と倭済の関係を父子であると記しています。『梁書』の「弥」は、『宋書』の「祢」と同じで、久尓辛王と推定されます。『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分註によれば、久尓辛王の薨去後、太子として王位を継いだ毗有王は、実際には久爾辛王の異母弟であると記されているようです。

 蓋鹵王が大草香皇子と倭国内にいた高句麗系の倭珍を討った後、允恭天皇の皇子を討ち、安康天皇(倭興)となり、蓋鹵王(倭興 安康天皇)が高句麗の長寿王に殺された後、昆支王(倭武 大長谷王)が葛城一族の大長谷若建命に代わって雄略天皇になったと推定されます。纏向遺跡の周辺に「景行天皇纏向日代宮伝承地」や「垂仁天皇纏向珠城宮伝承地」がありますが、雄略天皇が采女を殺そうとした時、采女が「纏向の日代宮は…」という雄略天皇を褒め称える歌を歌ったことで、殺されずに済んだという話があります。雄略天皇の宮は、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)ですが、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたとされ、斯鬼宮(磯城宮)が磐余宮かもしれません。纏向に景行天皇の日代宮があったことにしたのは、雄略天皇(大長谷王 昆支王)と思われます。

 雄略天皇に殺された葛城円(かずらきのつぶら)大臣の娘で、伊勢神宮の斎宮となった葛城韓媛(かつらぎのからひめ)は、第22代清寧天皇(せいねいてんのう)の母親です。雄略天皇に殺されずに済んだ采女は、葛城韓媛のことかもしれません。清寧天皇には皇子がなく、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(履中天皇の第一皇子)の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を宮中に迎え入れているので、清寧天皇の父親は雄略天皇ではなく允恭天皇と思われます。大草香皇子が安康天皇に誅殺された後、連れ子として育てられた眉輪王(まよわのおおきみ)が、安康天皇と母の会話を盗み聞いて、寝ていた天皇を刺殺した(眉輪王の変)とされていますが、雄略天皇(大長谷王 昆支王)が眉輪王を討つための口実に創作された話と思われます。眉輪王とともに、葛城韓媛の実家である葛城円の邸宅に逃げ込んだ允恭天皇の皇子の坂合黒彦皇子は、焼死したことになっていますが、坂合黒彦皇子は逃げ延びて清寧天皇となったと思われます。古代豪族葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に、葛城円の邸宅と推定される焼失した豪族居館遺跡(極楽寺ヒビキ遺跡)があります。極楽寺ヒビキ遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵古墳)や、伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)があります(図8)。

図8 極楽寺ヒビキ遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵古墳)、伯耆稲荷神社

 清寧天皇の妹の稚足姫皇女は、伊勢神宮の斎宮となった後、自害していますが、伊福部氏(尾張氏)と推定される廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)と結婚していたのかもしれません。

 江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説は、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説です11)。馬韓を統一した百済王は、北魏の孝文帝に上表した文中に「臣は高句麗とともに、源夫餘(ふよ 扶余)に出いず」とあり、辰王の系統と、馬韓54国の一つであった伯済(はくさい 百済の前身)の王統とは、同一の流れを引くものである可能性が極めて高いようです。

 458年、百済の蓋鹵王は、宋に対して重臣11人の任官を要請していますが、そのなかに百済の左賢王右賢王という王号も帯びている人物がいて、左賢王余昆は蓋鹵王の弟である昆支と考えられています。左賢王・右賢王は、匈奴の国制における地位の一つで、匈奴では共に単于に次ぐ地位です。

 漢代の初め、匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓と鮮卑になりました。東胡時代の遺跡や遺物から、東胡もモンゴル系とみる解釈が有力視されています。鮮卑族の拓跋氏によって建てられた北魏の皇族で、孝文帝の長子である元恂(げんじゅん、483年 - 497年)は、謀反を計画し部下を誅殺したことから廃太子になり、河陽で毒殺(賜死)されたことになっています。中国の史書『梁書』武帝紀では、武烈4年にあたる壬午年(502年)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されているので、元恂が倭国に送られ、第25代武烈天皇になった可能性も考えられます。百済の蓋鹵王は、そのための「鹵獲」として利用されたのかもしれません。

 武烈天皇の即位を主導したのは大伴金村とされ、金村は天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖神とする古代の有力豪族で、5世紀後半から6世紀前半にかけて大連(おおむらじ)として歴代天皇に仕えています。498年には、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた金村に、木菟の子の平群真鳥(まとり)とその子の(しび)が誅殺されています。万葉集巻18には「大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負ひ持ちて仕へし官」があって、大伴家持は、大伴氏の祖は大久米主のとしています。『古事記』によると、大来目命は刺青をしていて、百越(越人)には、黥面(入墨)の風習があったことから、大伴氏の祖は、久米直と同様に百越で、長江文明に由来する倭族と推定されます。

 仁賢天皇の没後、平群真鳥が大王になろうとしたことに不満を抱いた大伴金村が、武烈天皇(在位:498年-506年(武烈8年))を擁立したのは、武烈天皇が、百済の王族と考えていたためと思われます。『日本書紀』によると武寧王(むりょんわん)は九州北部の島で生まれたことになっていますが、『三国史記』には、武寧王は461年に東城王の第2子として生まれたとあり、日本で生まれたという記録はありません。金容雲氏も指摘しているように7)、倭国の大王に擁立するためには、日本生まれとする必要があったのかもしれません。武寧王の即位は、武烈4年(502年)で、昆支王の子の東城王(末多王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしています。武寧王は41歳(502年)に至るまで倭国で生活していたとする説もあるようです。武寧王と王妃の木棺は、日本特産のコウヤマキで作られていて、韓国の研究者は、武寧王の王妃は倭人としているようです。武烈天皇の在位を506年までとしたのは、大王の不在期間を埋めるためか、武烈天皇と武寧王を別人とするためと思われます。

 『古事記』の葦原中国の平定の説話では、阿遅志貴高日子根神が「十掬剣(とつかのつるぎ)」を持ち、建御雷之男神が大国主神の前で「十掬剣」の切先にあぐらをかいています。鹿島神宮には、奈良時代末から平安時代初頭の制作とされる国宝の直刀(韴霊剣 ふつのみたまのつるぎ)が収められていますが、刀身が223.5cmなので「一掬」は、十分の一の22.35cmとなります。「掬」の意味は、両手ですくいあげることなので、親指を含めた掌の幅の2倍とすると、同程度の長さになります。韴霊剣が「八尺剣(やさかのつるぎ)」とすると、1尺は27.9cmとなりますが、中国の歷代度量衡制演變簡表によると、中国の南北朝(439年から589年)の北魏の一中尺が27.9cmで一致します。したがって、韴霊剣(十掬剣)は、北魏の尺を使って作られた「八尺剣」と推定されます。このことから、大国主命の国譲り神話などは、5~6世紀に創作されたと考えられます。古墳時代の中~後期で、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造られた時代と重なります。韴霊剣は、実用に耐える刀ではないようなので12)、葦原中国の平定に北魏が係わっていたことを示すために残されたものかもしれません。

 東漢氏(やまとのあやうじ)は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人(半島)系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団で、土木建築技術や織物の技術者がいたようです。東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来するとし、霊帝の末裔を称していますが、北魏の孝文帝は漢化政策を進め、鮮卑族と漢民族の婚姻を奨励したことから、東漢氏には、北魏出身の氏族もいたと推定されます。雄略期に渡来した東漢直掬(やまとのあやのあたい つか)は、「掬」の字が使われていることからも北魏の軍人だった思われます。掬は大伴室屋と共に雄略没後の星川稚宮皇子の反乱に対応し鎮圧しています。

 『古事記』の葦原中国の平定では、天若日子が殺された後、阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)が喪を弔いに来た際に、天若日子の父と母が我が子と間違え、阿遅志貴高日子根神は怒って十掬剣で喪屋を切り伏せています。十掬剣は、「大量(おおはかり)」またの名は「神度剣(かむどのつるぎ)」というとあり、これらは「度量衡」の「度(ながさ)」と「量(おおきさ)」のことで、北魏の尺で作られた長く大きい刀(八尺剣)を表していると推定されます。阿遅志貴高日子根神の別名は、迦毛大御神(かものおおみかみ)で、葛城地方、賀茂(鴨)氏の祭神と推定されています。弓月君を祖とする帰化氏族の秦氏は、5世紀中頃に渡来し養蚕・機織りを伝えた氏族集団と考えられていますが、新羅古碑によって秦氏の「ハタ」は、新羅の「波旦(ぱたん)」に由来することが有力となっています。秦氏は、賀茂(鴨)氏と早くから姻戚関係がありました。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられています。また、秦氏と藤原北家は婚姻関係を持っていたとされています。雄略天皇は、一言主神を土佐へ流刑に処していますが、高知県高知市一宮に土佐国一宮の土佐神社があり、味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神が祀られています。味鋤高彦根神が祀られているのは、戦国大名の長宗我部氏が秦氏の子孫とされることと関係があると推定されます。

 『新撰姓氏録』には「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がありますが、秦の始皇帝の妃の頭蓋骨から3D出力で顔を復元した結果、中国系ではなく、ヨーロッパ系の人物の可能性があるようです。また、2006年6月28日の新華社電は、始皇帝陵の墓から出土した人骨がペルシャ系のDNA と同じ特徴を持つ男性の骨と分かったと伝えています。前6世紀後半、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシアは、東方に進出し「サカ」と総称される遊牧騎馬民族(スキタイ)と接触したようです。

 奈良市にある安康天皇の陵は方丘で、蓋鹵王の墓かもしれません。大阪府羽曳野市にある雄略天皇の陵は、円墳「島泉丸山古墳」と方墳「島泉平塚古墳」を合わせた前方後円墳とされ、1885年(明治18年)以降には前方後円形に修陵されています。応神天皇は390年に即位したと推定されることから、曾孫の大長谷若建命は、1世代25年とすると465年頃の人物と推定され、島泉丸山古墳の築造が5世紀後半頃なので、被葬者とすると一致します。

 顕宗天皇が、父の復讐として雄略陵を一部破壊したと伝えられ、『全国「天皇陵」集成』(図9)13)を見ると、方墳の「島泉平塚古墳」は一部崩されているようなので、方墳の「島泉平塚古墳」が昆支王(大長谷王)の墓として作られたのかもしれません。

図9 全国「天皇陵」集成 出典:米田雄介 監修 一個人 2019年 8月号 別冊付録  KKベストセラーズ

 しかし、島泉平塚古墳からは古墳であることを示す遺構や出土品は確認されていません。柏原市高井田の高井田山古墳は、韓国の武寧王陵とよく似た石室を持ち、武寧王陵出土の火熨斗と瓜二つの火熨斗が出土しているようで、昆支王の墓の可能性が示唆されています。高井田山古墳は、奈良県香芝市にある武烈天皇(武寧王と推定)の陵と韓国の武寧王陵を結ぶラインの近くにあり(図10、11)、武烈天皇と武寧王は関係があると推定されます。

図10 武烈天皇陵と武寧王陵を結ぶラインと高井田山古墳
図11 武烈天皇陵と武寧王陵を結ぶラインと高井田山古墳

 奈良県香芝市にある武烈天皇の陵は、不定形の山形になっていますが、古墳が完成する前に百済の武寧王になったためかもしれません。武寧王が武烈天皇と同一人物とすると、武寧王陵から出土した鏡が、仁徳天皇陵から出土した鏡とほぼ同じ形をしていることが説明できます。

文献
1)河内春人 2018 「倭の五王」 中公新書
2)佐藤信 2016 「大学の日本史1古代」 山川出版社
3)大平裕 2017 「「任那」から読み解く古代史」 PHP文庫
4)溝口睦子 2009 「アマテラスの誕生」 岩波新書
5)渡部昇一 2016 「「日本の歴史」1 古代篇 神話の時代から」 WAC
6)上田正昭和 2013 「渡来の古代史」 角川選書
7)金 容雲 2011 「「日本=百済」説」 三五館
8)森 浩一 2011 「古代史おさらい帖」 ちくま学芸文庫
9)直木孝次郎 1988 「古代日本と朝鮮・中国」 講談社学術文庫
10)若井正一 2019 「邪馬台国吉備説からみた初期大和政権」 一粒書房
11)白石太一郎 鈴木靖民 寺澤薫 森公章 上野誠 「発見・検証 日本の古代Ⅱ 騎馬文化と古代のイノベーション」 KADOKAWA
12)黒岩俊郎 1976 「たたら 日本古来の製鉄技術」 玉川大学出版部13)米田雄介(監修) 2019 「全国「天皇陵」集成」 一個人 8月号 別冊付録 KKベストセラーズ