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温故知新(36)榎本武揚 土方歳三 田中富三郎 竹久夢二 新井白石 雨森芳洲 渋沢栄一 朝河貫一 松下幸之助

 幕末から明治にかけて活躍した榎本武揚がいますが、須佐之男命を祀っていると推定される榎本神社と同じ名前の榎本姓の多くは紀伊をルーツとし、熊野権現の御師(おし)の家柄とされます。榎本姓の分布をみると市区町村では、三重県南牟婁郡御浜町(3.0%)、紀宝町(2.4%)、兵庫県南あわじ市(2.1%)が比較的多く、素鷲社の近くを通る熊野速玉大社とメンフィスを結ぶラインの近くに分布しています(図1)。榎本氏は、須佐之男命と関係があると推定されます。

図1 熊野速玉大社とメンフィスを結ぶラインと御浜町、紀宝町、南あわじ市

 榎本武揚と共に戊辰戦争で新政府軍と戦い箱館五稜郭で戦死した土方歳三の出生地は武蔵国で、俳句を読むとき用いた雅号は豊玉(ほうぎょく)で、家紋は左三つ巴です。家督を相続した土方家の家長は「土方隼人(はやと)」と名乗ったようです。「隼人」は名草彦命(長髄彦、海幸彦)と関係があると推定され、「豊玉」は豊玉姫命と関係があると推定されるので、土方氏は丹生氏と関係があると思われます。東京都日野市石田に豪農の土方家があり、新撰組の土方歳三はこの一族の出です。日野市石田とオリンポス山を結ぶライン上に武甲山があり、ラインは大己貴命を祀る琴平神社(秩父市下影森)の近くを通り、丹生氏の宇胡閉の墓と推定される山の神古墳のある小鹿野町を通ります(図2)。このことから、土方歳三は、丹生氏と関係があると推定されます。丹生氏の丹党嫡流中村氏の「中村」と同様に、「土方」を名乗った藤原氏(中臣氏)もあるようです。

図2 日野市石田とオリンポス山を結ぶラインと武甲山、琴平神社(秩父市下影森)、小鹿野町、山の神古墳

 高木氏にも、清和源氏流や美濃衆の高木氏の他に、肥前国発祥の藤原氏流高木氏があります。波多氏には、崇神天皇の代に波多国造となった天韓襲命の後裔がいますが、大和国高市郡波多郷を本貫とする皇別氏族や、渡来系の坂上忌寸を出自とする氏族がいます。羽田家は秦氏の末裔と伝えられています。中臣鎌足が生まれた大和国高市郡発祥の田中氏は田中直の末裔とされます。

 田中氏には、古代豪族の他、蘇我氏、藤原氏、源氏、平氏、橘氏を由来とする氏族がいるようです。天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神を祀るサムハラ神社(大阪市西区)を建立した田中富三郎は、1868年(明治元年)に美作加茂で生まれ、万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営し、加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与されています。六甲比命大善神(弁財天・吉祥天瀬織津姫)を祀る六甲比命大善神社(神戸市灘区)は、サムハラ神社奥の宮とサムハラ神社を結ぶライン上にあることが知られていますが、六甲比命大善神社と剣山を結ぶラインの近くに摩耶山や伊弉諾神宮があります。サムハラ神社と剣山を結ぶラインの近くには、観音寺(鳴門市)、井戸寺(徳島市)、焼山寺(名西郡神山町)があります(図3)。

図3 サムハラ神社奥の宮とサムハラ神社を結ぶラインと六甲比命大善神社

 宇治姓の由来は、宇治連、宇治宿禰、宇治朝臣、宇治真人等の子孫の他、藤原氏の秀郷流などにもみられるようです。『新撰姓氏録』の山城国神別には、天神に阿刀宿禰、阿刀連、熊野連、宇治宿禰など、天孫に土師宿禰、出雲臣、尾張連などが記されています1)。宇治姓は、岡山県では、瀬戸内市山手や津山市宇野に比較的多くあり、加茂町宇野や、黒媛の里のある新野山形は、日前神宮・國懸神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図4)。

図4 日前神宮・國懸神宮とオリンポス山を結ぶラインと津山市新野山形、加茂町宇野

 竹久夢二は、数多くの美人画を残し、大正ロマンを代表する画家ですが、文筆の分野でも活躍し、詩『宵待草』は曲が付けられて全国的な愛唱曲となりました。竹久の姓は、岡山県勝田郡勝央町植月東が本拠で、吉備海部直の娘の黒媛の出身地である新野山形の近くにあり、オリンポス山とサムハラ神社奥の宮を結ぶラインの延長線は、新野山形と植月東の地区を通ります(図5)。

図5 オリンポス山とサムハラ神社奥の宮を結ぶラインの延長線と新野山形、勝央町植月東、中山神社、那岐山

 岡山県瀬戸内市邑久町夢二生誕の地(写真1)で、尾張氏と関係があると推定される邑久町尾張にある百枝八幡宮築山古墳(長船町西須恵)や美和神社(長船町東須恵)にも近いので(図6)、もしかすると夢二は黒媛と関係があり、美人画も黒媛と関係があるかもしれません。夢二は、震災後の混乱を描いた「東京災難画信」の新聞連載を遺していますが、最後は「バビロンの昔」という題です。夢二はコスモポリタンを自称していたようです(参考:NHK 英雄たちの選択)。夢二の菩提寺として高野山真言宗横尾山静円寺(邑久町本庄)が知られています。静円寺には、岡山県指定重要文化財の多宝塔があります(写真2)。静円寺とギョベクリ・テペを結ぶラインは、百枝八幡宮を通ります(6)。高野山真言宗の静円寺が、尾張連の祖、高倉下命を祀る宮地にある百枝八幡宮とつながっているのは、高倉下命が丹生都比売命とつながる丹生氏や紀氏の祖である莵道彦(大国主命、孝元天皇)と推定されることと整合します。美和神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、倭建命(成務天皇)の陵墓と推定される築山古墳や福岡県や福岡市の名称の由来となった長船町福岡を通ります(図6)。また、静円寺と長船町福岡を結ぶラインと築山古墳と百枝八幡宮を結ぶラインが交差する場所に岩屋山展望台がある邑久町山手があります(図6)。

写真1 夢二生家記念館(邑久町本庄)
写真2 静円寺 多宝塔
図6 美和神社(長船町東須恵)とギョベクリ・テペを結ぶライン、ギョベクリ・テペと静円寺を結ぶライン、静円寺と長船町福岡、築山古墳(長船町西須恵)、百枝八幡宮(邑久町尾張)を結ぶラインと、邑久町山手、岩屋山展望台、夢二郷土美術館・夢二生家記念館(邑久町本庄)

 大分県杵築市大田小野にある財前(ざいぜん)家墓地には、国東塔や板碑(いたび)、五輪塔が約100基群在しています(財前家宝塔)。杵築市大田小野には比枝神社や山神宮があり、「財前」は鎌倉時代後期頃に紀氏(きうじ)が称したと伝えられます。丹生川上社の社家(大丹生・丹生氏)は、紀国造と同族で、初代紀伊国造天道根命から紀君豊布流と続き、豊布流の弟に神奴君小牟久(垂仁天皇と推定)がいて丹生都比売大神を祭ったことに始まるといわれます。紀氏は、記紀などによれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角(きのつの)を始祖とします。国東半島には、山神社、日吉社、大歳神社などが多くありますが、国東市安岐町中園にある大歳神社と、高野山(和歌山県伊都郡高野町)と丹生都比売神社を結ぶラインがつながっているクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインの近くにこれらの神社や財前家宝塔があります(図7)。

図7 大歳神社(国東市安岐町中園)とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインと財前家宝塔、山神社、日吉社、大歳神社

 紀氏の流れをくむ末裔として、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)があります。益子氏は、武内宿禰の末裔とされ、家紋は左三つ巴です。茨城県笠間市にある宇迦之御魂神を祀る笠間稲荷神社(写真3)とギョベクリ・テペを結ぶラインは、栃木県芳賀郡益子町にある益子鹿島神社西明寺日光東照宮や男体山の近くを通ります(図8)。益子や笠間は陶器市で知られていますが、笠間市内には、旧石器時代からの小組遺跡(こぐみいせき)や石山神遺跡・寺平遺跡・行人(ぎょうや)遺跡など、1万~1万5000年前の縄文時代前期の遺跡が多数あります。

写真3 笠間稲荷神社
図8 笠間稲荷神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと益子鹿島神社、西明寺、日光東照宮、男体山、小組遺跡

 結城氏は、下総国結城郡が起源(ルーツ)とされ、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる藤原氏秀郷流とされていますが、結城廃寺跡からは、最近、新羅系土器と推定される土器破片が見つかっています。鹿島神宮奥宮とメンフィスを結ぶラインは、常陸風土記の丘、壬生車塚古墳の近くを通り、メンフィスと香取神宮奥宮を結ぶラインは、建御名方神を祀る結城諏訪神社や結城廃寺跡の近くを通ります(図9)。「結城」の姓は、市町村では山形県最上郡最上町が最も多く、最上町とメンフィスを結ぶラインは、白山神社(山神神社)の近くを通るので(図10)、結城氏は元々は縄文系氏族だったと推定されます。他に家康次男の下総結城藩主、結城秀康がいます。

図9 鹿島神宮奥宮とメンフィスを結ぶラインと常陸風土記の丘、壬生車塚古墳、メンフィスと香取神宮奥宮を結ぶラインと結城諏訪神社、結城廃寺跡
図10 山形県最上郡最上町とメンフィスを結ぶラインと白山神社(山神神社)(最上郡真室川町差首鍋)

 1716年(享保元年)に成立した新井白石が著した古代史解釈の書『古史通』(こしつう)は、祭祀や神話を宗教的よりも現実の人間の歴史として解釈しようとしたことが評価されています。江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者で詩人でもあった新井白石の先祖は上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪でした。太田市新井町は、源義国による創建と伝わる冠稲荷神社足利織姫神社(栃木県足利市)を結ぶライン上にあり、新井町とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、木花佐久夜毘売命を祀る産泰神社(群馬県前橋市)があります(図11)。太田市には徳川町があり、オリンポス山と徳川町を結ぶラインの近くには、世良田東照宮があります。新井白石は新田氏と関係があるかもしれません。

図11 冠稲荷神社、足利織姫神社、新井町とギョベクリ・テペを結ぶラインと産泰神社、オリンポス山と徳川町を結ぶラインと世良田東照宮

 雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)(1668年-1755年)は、江戸時代中期の儒者で、中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わり『交隣提醒』をまとめ2)、新井白石・室鳩巣ともに木下順庵門下の五先生や十哲の1人に数えられました。雨森氏は藤原北家高藤流とされていますが、家紋は橘で、浅井氏に属し、浅井氏が滅亡したのちは大彦命を祖とする阿閉氏 に属し、その後は出雲松平家に召し抱えられたといわれます。芳洲の生まれ故郷は滋賀県の高月町雨森ですが、高月町雨森と丹生都比賣神社を結ぶラインの近くには、沖の白石兵主大社(滋賀県野洲市五条)、富雄丸山古墳、法隆寺、藤ノ木古墳石清水八幡宮別宮八幡神社(大阪府河内長野市天見)があります(図12)。雨森芳洲は、縄文系氏族で丹生氏と関係があると推定されます。

図12 高月町雨森と丹生都比賣神社を結ぶラインと沖の白石、兵主大社(滋賀県野洲市五条)、富雄丸山古墳、法隆寺、藤ノ木古墳、石清水八幡宮別宮八幡神社(大阪府河内長野市天見)

 日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の渋沢家は、武蔵国血洗島(埼玉県深谷市)の藍づくり農家で豪商でもあり、「東の家」は名主として名字帯刀を許され、岡部藩の御用達でしたが、血洗島の渋沢家は甲斐源氏の一族の末裔と伝えられています。「渋沢」という苗字は、武蔵、上野、信濃などにみられ、武蔵国一之宮 氷川神社とオリンポス山を結ぶラインは血洗島を通り、血洗島には建御名方命を祀る諏訪神社があります(図13)。渋沢栄一は諏訪氏と関係があると思われます。

図13 武蔵国一之宮 氷川神社とオリンポス山を結ぶラインと諏訪神社(血洗島)

 朝河貫一は、日本人として初めてイエール大学で歴史学の教授を務めた世界的な歴史学者で、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行ったことで知られています。2023年は、博士が生まれてから150年にあたります。福島県二本松市出身で、郡山市にある安積国造神社の宮司の安藤家と朝河家は親戚関係のようです。安積国造神社とオリンポス山を結ぶラインの近くに石船神社(新潟県村上市岩船)があります。朝河姓は少なく、愛知県豊橋市東田町西脇に分布がみられます。オリンポス山と西脇を結ぶラインの近くには伊奴神社や1470年に松平家の守護神として創建された伊賀八幡宮があるので(図14)、朝河氏は松平氏(伊福部氏と推定)と関係があると思われます。

図14 安積国造神社とオリンポス山を結ぶラインと石船神社、オリンポス山と西脇を結ぶラインと伊奴神社、伊賀八幡宮

 三重県鈴鹿市にある猿田彦大神を祀る椿大神社には、松下幸之助社があります。「経営の神様」とも呼ばれる松下幸之助の出生地は、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)ですが、禰宜と猿田彦神社(和歌山県有田市箕島)を結ぶラインは、猿田彦大神(和歌山県海草郡紀美野町)とロドス島を結ぶラインとほぼ直角に交差し、猿田彦大神とロドス島を結ぶラインの近くには日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)があります(図15)。松下幸之助は猿田彦命の後裔かもしれません。二股ソケットは、松下電気器具製作所創業当初のヒット製品の一つですが、エジプト、デンデラのハトホル神殿にある石造りのレリーフは、電球ではないかともいわれています。電池は、古代オリエントでも使われていたようです。松下幸之助の著書『道をひらく』は、若い頃、読んだことがあります。(敬称略)

図15 猿田彦大神と禰宜と猿田彦神社を結ぶライン、猿田彦大神とロドス島を結ぶラインと日前神宮・國懸神宮

文献
1)戸矢 学 2021 「神々の子孫 「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈」 方丈社
2)梅原猛、上田正昭 2001 「「日本」という国」 大和書房