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多様性について思うあれこれ

先日、「多様性の時代というのは人類始まって以来じゃないか」という話を聞く。(だから慣れてない、混乱するのは当たり前ということ)

多様性と言って思い出すのは息子の中学の時の言葉だ。
「学校で口では多様性と言ったって、髪型やら校則の縛りが多すぎるし、自由に意見を言ったら多数決で潰されるし、どこにも多様性なんてないよ」と。「だったら言わなきゃいい」と怒ってたなぁ、、、

「多様性を重んじましょう」と言っても環境や状況がそうなってないと言葉だけが浮いてしまう。
浮いた言葉というものは、ないも同じ。
風土や文化が育たないと、それは壁にかけた標語と同じで、事実上「ない」もの。顧客第一主義と言って、会議では数字の話ばかり、、、みたいなことがよくあるけど、社員はトップの掲げているものではなくて、行動を見ているし、それが評価になると利益第一主義になっていく、、、よなぁ、、、なんて思ってた。

あたりまえ、という前提が、企業や学校など集団や組織の中に根深く入ってる。あたりまえだから、気づかない。
浸透しすぎて無意識にそこに「ある」暗黙の了解というやつだ。

「変わり者」というものが過ごしにくいのは、排除しようとする浄化機能が働くから、なんじゃないかなぁ。異質なものを取り除きたい無意識の反応。

浄化作用といえば私が小さい頃、関西から閉鎖的な地域に引っ越して、言葉の違いでいじめられたものだった。
その後、今から思えば多動で発達障害だったと思うけど、
小学校に入ってもみんなと同じ事が出来なくて和を乱すとか言われたり、女子の集団にはホトホト馴染めなかった。
ジッとしてられなくて授業中に椅子を前後に揺らして怒られたり、
空想ばかりして話を聞いてなかったり、
聞かれたことに全然違うことを答えて変な人と思われたり、一緒にトイレに行くとかなんかよくわかんないなーと群れるのが嫌で断ってたら周りに人がいなくなった。

クラス委員になったら超楽だった。
朝礼とかで並ばなくていい!(点呼を武器にウロウロできる)
先に何をするのか知ってるので、相手に伝えることで自分のペースを守れる。
決まったことを伝える役割だったり、みんなの意見をまとめる、というのはすごく楽だった。
で、小学校4年から高校卒業するまで、ずーっとクラス委員をやってた。
真面目で優等生という「型」を持つことで、集団の中で生きる術を学んだ。

あの頃、
トイレに行くにも連れ立って行ったり、みんなで固まって「あーだこーだ」と言ってた人たちはどうしているんだろう。
「みんな言ってる」
「あなたのこういうところがいけない」
集団という暴力。自分の意見を言わないで多数でまとめてくる力。

育休の時にママたちの集まりに行った時、夫の悪口から始まり、保育園の先生たちの文句、などなど愚痴大会になっていった時、頭痛がした。
悪く言うのは求心力を持つから、自分の正しさの証明とか共感とか、集団形成にはすごく役に立つ。
でも、そのどよんと暗いと言うか重い空気が耐えられなかった。
そして、そこでそうだね、なんてうなずくと「あの人も言ってた」と言われちゃうんだよ。
くわばらくわばら。

そういえば、
高校3年の文化祭で、男子と女子の言い合いを見てそんなことどうでもいいんじゃないか、と早く作業を進めよう、と思ってた矢先に「あなたはどう思うの!!」と感情的に聞かれて咄嗟に「どっちでもいいんじゃないの?」とか言っちゃったんだよなぁ、、、
冷めた物言いをしてしまい、その後の文化祭でクラス中からハブにされた苦々しい思い出がある。

学校って、違う意見を持つことに対して、逃げ場がない、とつくづく思う。
価値観を押し付けられたり、型に嵌められたり。
それは、先生側からも生徒側からも言葉にならないところであって。
うまく適応出来ないと生きてられない。うっかり自分の意見を持ってたり、違うと言う違和感を隠し続けていると、スケープゴートにされるよなぁ、、、
息子も娘も、学校生活がうまくいかなかったのは、そりゃそうよね、と思う。

ママたちの集団とも、合わないなーと思ってすーっとフェードアウトした。
おかげで、いまだにママ友は2人しかいない。
だからと言って困ってないし、自分にとって心地いい関係があればそれでいいと思う。

と、思うと、多様性の時代と言われても、自分たちが経験してこなかったものをどうやって??とか、環境や日々の中での関係性をつくってきた中で、いまさら変えられないものがあるのだと思う。

習慣というのは、無意識で繰り返されてきたことだから、そこを変えるのは本当に大変なことで、脳が疲れるから避けよう、戻ろうとする。

だから、変革していくのは「よそもの、わかもの、ばかもの」なのだなぁと思う。
習慣にされてないあたりまえを「変だな」と疑う力。

そういえば、よく言ってたなぁ「異動してきて3ヶ月の間に変だなと思うことは、自覚して変えて行かないと、自分がそれに慣れちゃう」

自分が組織改革してきた時に、最初の違和感をちゃんと「変」と感じることをしてきた。
異動してきた人にも言ってきた。「私たちはもう何が変なのかわからないかもしれないから、言ってね」

慣れるとわからなくなる。
そこに流れるものに「そんなもんなんだな」と合わせていってしまうから。

そこに慣れるのに3ヶ月
6ヶ月で、ほんとにやるんだなということが浸透してくる
成果を出すのは1年から、という時間軸を持って集団に関わってきたことを思い出した。

多様性って、正解がないことが前提でみんなでどうしていくのかを、その状況と目的に合わせて考え続けていくことなんじゃないかと思う。

誰も応えを持ってない時代に入り、競争が通用しないことになってくる時、分かち合い、分け合い、知恵を出し合う時代がやってくるんだろうと思う。


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