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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 235 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

信長は、勝頼の乗馬大鹿毛を信忠に与えた。

 同日。
 申し分のない戦ぶりであった。
 「見事なり」
 そう、思っていただろう。 
 
  仁科五郎乗り侯秘蔵の蘆(あし)毛馬・武田四郎乗馬大鹿毛(かげ)、
  是れ又、進(まい)らせられ侯ところ、
  大鹿毛は、三位中将信忠卿へ参らせられ、

信忠は、自慢の後継者だった。

 信長は、目を細めた。
 大満足である。
 織田家の将来は、明るい。

信長は、武田の消滅を実感した。

 勝頼の愛刀を手にした。
 
  武田四郎勝頼、最後にさゝれたる刀、
  滝川左近かたより、信長公へ上せ申され侯。
  使に祗侯の稲田九蔵に御小袖下され、忝き次第なり。

信長は、執念深い。

 思えば、十年前。
 元亀三年(1572)、十二月。
 信長が窮地に陥った時。
 武田信玄が裏切った。
 三方ヶ原の合戦。
 大敗北。
 信長は、煮え湯を飲まされた。
 積年の怨み。
 今、ここに晴らす。

信長は、勝頼の首を京へ送った。

 同日。
 「獄門に懸けよ」
 使者は、長谷川宗仁。
 
  武田四郎・同太郎、武田典厩・仁科五郎、
  四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、
  京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由侯て、御上京侯なり。
                          (『信長公記』)

長谷川宗仁は、首の配達人。

 天正元年(1573)、八月。
 信長に命じられ、朝倉義景の首を京へ送り届け、獄門に懸けている。

          ⇒ 次回へつづく




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