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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 233 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

信長は、浪合で勝頼の首と対面した。

 同三月十四日。
 浪合に到着(長野県下伊那郡阿智村浪合)。
 静かな山中の集落。 
 今で言えば、四月頃。
 新緑の谷あい。
 桜の咲き始める季節である。

 この日の行程、凡そ五里(20km)。
 信長は、ここで、勝頼の首と対面した。
 
  十四日、平谷(同平谷村)を打ち越え、なみあひに御陣取り。
  爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛・桑原介六、もたせ参り、
  御目に懸けら侯。
  則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
                          (『信長公記』)

光秀も、浪合で勝頼の首を見た。

 光秀は、信長に同行している。

 これが、武田の最期。
 信長に逆らった者の末路。
 「哀れなものよ」
 時は、滔々と流れていた。

信長は、戦後の処理について考えた。

 思った以上に、早い決着。
 後継者、信忠の手腕。
 滝川一益の手柄。
 諸将の勇戦。
 等々。

 信長は、機嫌がいい。
 満足していた。

 となれば、次。
 甲斐・信濃・上野・駿河。
 四ヶ国の国割。
 恩賞。
 諸将の配置。
 家康のこと。
 関東・奥羽の仕置き。
 北条のこと。
 等々。

          ⇒ 次回へつづく



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