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僕は毎日欠かさず、伏見稲荷を訪れる

僕が起きてすぐすることは水を飲むことです。そして次にするのは、伏見稲荷大社まで散歩し、一礼して帰ること

(正確には「二礼二拍手一礼」して帰る、ですね)

雨の日も雪の日も、朝イチから人と会う予定があっても、基本的には欠かしません。なぜかと言うと、一日ご機嫌に過ごせるようにです。

何となく、漠然と神様を信じてみる

僕は特別に信仰が厚いわけではないと思います。「〜教」や「〜宗」を信仰しているわけじゃないし、宗教的な作法や慣例、経典、教えなどにはそこまで強い興味を持ってはいません(少しはあります)。

占いやスピリチュアル的な話も、あまりそそられないです(別に嫌いではないです)。

でも僕は、自分なりの形で、何となく神様を信じることにしています。

ただただ何となく、「漠然とした信仰心」を生活の中で大事にしている感じです。

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別に「信じていればいい事がある」とか「悪いことや罰当たりなことをしていたら、いつか必ず天罰が下る」とか、そんなことを考えてるわけじゃないんです。

(ちなみに、「信じる者しか救わない」としたら、そんなセコい神様はちょっと嫌だなとも少し思ってしまいます。)

「いいことがある」とか「バチが当たる」とか、そういう話じゃなくて、神様を信じていた方が何となく心地よく過ごせるよね、それだけのことなんです。

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目に見えないものを信じることで、何となく気分良く過ごせる

毎朝の散歩ついでに、本殿の前で手を合わせて「いつもありがとうございます。今日も一日、よろしくお願いします」と心の中で唱える。これって何となく、気分の良いことではないですか?

結局のところ、お金とかビジネスとかと関係なく、自分で自分をご機嫌にできるって何よりなだなって思います。

生活の中で何となく神様とかご先祖さまとかを意識するって「自分を良い方向へ導くこと」だと思うんです。

例えば道端に落ちているゴミが気になったとき。 気になってしまったのも何かの縁かな、と思い拾ってゴミ箱まで持っていきます。

(気に留まらないこともあります。いつも必ずゴミ拾いするような聖人ではないです。)

別に正義感やボランティア精神でやってるわけじゃなくて、自分自身が「よし、今日はいいことしたなっ!きっと神様も見てくれていることだろう!」と勝手に気分良くなりたいからやっているわけです。

ちなみに、伏見稲荷大社は稲荷山全体が御神体としているそうです。

山や自然が大好きな僕としては、「自然の中に神様が宿っている」という考え方はなんとなく好きです。

(ちなみに僕は、霊とかご先祖さまとか、そういう目に見えないものも何となく信じています。だって、「誰もいないことを証明できないもの」を否定するのって、馬鹿らしいしつまんないじゃないですか。)

自分がご機嫌でいるために、なんとなくの信仰を

別に、「〜宗」とか「〜教」、「〜学会」に入ることだけが宗教じゃないと思うんです。というか歴史をさかのぼれば、日本人の信仰のルーツは「自然信仰」だそうです(詳しくないので語りませんが)。

「山や土地には神様が宿っている」

そう何となく信じて、神社を通して感謝を伝える。そう言う気持ちを日々持つことがどんなときも穏やかに過ごすコツなんじゃないかなと思っています。

だってみんな、何となくは信じているからお正月に初詣行くんでしょ?
だったら毎日行けば、もっといいと思いますよ!

なんとなくそう信じて、今日も明日も、僕は伏見稲荷へ一礼してきます。

(ちなみに、僕は今年の初詣で5年連続となる大吉を引いています。「僕が日々感謝を伝えているから、神様も僕のこと好きでいてくれてるのかなっ!」と勝手に思っています。今年もいい事ありそうです)

ー 2021.01.11. 充紀

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