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翠月瞳の考察【役者】

役者ってすごい生業だなあ、と考え続けています。
今も昔も永遠憧れ続ける存在で、尊敬し続ける存在で、疑うことのない存在でした。

でも踏み入れてみれば何が何だかわからない。
いろんな方がおられますし、いろんな作品があります。
彼らといると「役者」って、何?って考えます。
また、魅力的なあの人やその人が役者だと知ると、そんな人があえて「役」をやる意味って何?って考えます。だからこそ、役者なのだとわかっていても。どうして役者をしているのですか?と初対面でも無礼をはたらく理由は、ここにあります。

表現は、生活と地続きであってほしいというのが
平和ボケした私の願いです。
音楽や踊りには紛れもなくそれがあるような気がするけど、演劇にはそれがなかなか見つけられない。どこか乖離することが、とても羨ましくて、そして悲しい。芝居をしなくてはいけない現実があることが、少し悲しい。これは、私の「芝居」および「役者」に対する若くて青い考え方と、ほんのりの嫉妬かもしれません。

近代演劇運動で起きた動きを思い出します。
人間とは何か、それを考えるのが、問うのが、
演劇であったなら、それはきっと生活の地続きであり、人間ならではの美しい営みになり、役者の意味を私が理解できる瞬間になると思う。

演劇の中で、そして社会の中で生きる「役者」について考えたり、実際にお話をするたびに、いわゆる「普通」との矛盾や、反対に論理をも超えてしまう魅力に気がつきます。そしてやはり、「役者」というのは不思議な生き物だなあと訳がわからなくなるのです。

私はいつしか、人前で何かを発することや伝えることに恥じらいを覚えるようになりましたし、自分で作品を作ったり演じたりした後ふっと日常に戻っていく奇妙さも払拭できません。「役者」というのは、人間らしさ丸出し・剥き出しのように感じますが、意外と細かなことを考えて理性的にも調節していて、現実の他の場所にもしっかり足をつけて生きているのです。やっぱりすごいなぁ。役者という生き物のことを考えるだけでなんだか涙がちょちょぎれそうになります。めっちゃ愛しいじゃないですか、役者。その身に抵抗と従順を携えて、自身の本質と役の本質を重ねたり混ぜたり引き離したりして、命をやってみるなんて。かつ、そこに社会、現実の理不尽もあちこちからやってくるんです。それなのに、あの世界で立派に立ってみせるなんて。恐ろしくもある、役者。何なの、とも思う、役者。畏怖と敬意、そしてどうしようもない憧れがあるために私は、「役者」についてこんな考察をしないといけないくらい複雑な気持ちを抱える羽目になってしまった。

「役者」が何たるかを探し、演劇が何たるかも考えたくて、いまは一生懸命観劇の経験を増やしています。(出演のお知らせがなかなかできないので……頑張ります!)観ながらいつも、震えたのがどの部分だったか考えます。私の感情か、本能か、身体か、理性か、はたまたただの衝動か。ギリシアの頃からそうなのでしょうが、あまりにも感情を動かすものが多いし、かといって教訓めいたものは観ていて面白くありません。私はそんな面倒くさい工程を踏むために、舞台上の役者に憧れ、その道を志したり、これが自分の宿命だと直感的に感じたり、といった夢を作るためのルートを自ら閉ざしてしまいます。劇場で燃えた小さな憧れは、すぐに頓挫してしまうのです。
さらには、未熟さを逆手にとって今後自分はどのように作品を提出するかを考えるようになりました。

芝居をすることに必死になる意味が、なかなかわかりません。必死になってみたいと、思いますが、やはり芝居を観て燃えた情熱や憧れを信じられる所以が、私には継続的にあるわけではないのです。また、自らを「役者」とした時の目的意識のなさも大いにこの理由になるのでしょう。

今現在、私が何より信じようとすることは、信じているのは、私に眠る、人間に眠る、何らかの精神性、芸術性、神秘性です。

芝居を観て燃えた情熱や憧れ、といった感覚的な欲求は本能や身体への忠実さを感じますが、結局は流れゆくと思うのです。(意外に理性的なのは好きな思想らの影響と己の底知れぬ欲望への反抗かも。)
どちらかと言えばその感覚を呼び覚ますことができる、奥深くの動かぬ力を私は知りたいし手を伸ばし続けたいと思います。そこにこそ、底知れぬ欲望をも満たしちゃう、不動の、すさまじく理知的な深遠なエロスがある気がする。いつになるか、死ぬまでできぬか、わかりませんが。

先日、ダンス公演を観た際に私は初めて救われたような気持ちを得ました。言葉のないその世界に、私が求めるものが散りばめられてたのです。言葉がないだけで、そして誰かとの関わりが直接的でないだけで、私の信念を満たせる劇的な芸術がそこにあるのだと思うと、心が弾みました。そして、私の知らない世界はまだまだあるのだと思いました。

つまり私が昔テレビを見ていて直感的に「女優になりたい!」と宿命のように感じたあれも、正しくて、正しくなかったかもしれない。
私は、すくすくとまではいかなくても、ちょくちょく、成長しているのでしょうから。

数年前と10年前に、いわゆる「普通」の生活をしていくために、幼い時からの夢を諦めようとしたことがあります。私は肥料を与えられずに育った植物のように張り合いなく暮らし、冷たい水をちびりちびりと啜るように、それでも乾き続け、毎日何かに恐れを抱くような面持ちでいました。

夢は、諦めない方がよい。
単純で一番に難しいことを、私はその経験と
素晴らしい方達との出逢いの中で知ることができました。

しかし、数年前にも10年前にも、そして日々の時々でも、こういった夢への「懐疑」に陥る瞬間があるのです。私の性質上仕方のないことですが、もしかして、それは私にとって必要なことなのではないかしら。「夢を疑う」防衛機制の一つに加えていただきたい。いわゆる合理化、なのかしら。人と話すようになって、私の夢への到達への歩みを止める例のこれを持っていないことを結構実感し、自分が超面倒くさいタイプであることも相当実感しています。


寄り道を続けていますが、今の結論では私も夢は諦めない方がよいと思う。夢を持てば、死の気配を忘れられる、生きる意味がはっきりわかっていく、誰かと話すことに喜びを感じられる。そんなに素晴らしいことはないと思います。が、しかし、ね。( 笑 )23歳は「若いんだから」と言われますが、ちょいと決断の迫るお歳でもある……


さて、さて、そろそろ、この堂々巡りも、やめ。

結局私は、夢への懐疑を経てたどり着いた私の信念を信じ、夢と自分の信念を絶えず天秤にかけながらものを考えるようになりました。そして、信念を守りながら夢へ到達するための逆算として、芝居をすることを直感だけでなく、改めて選択したはずでした。でもそれは過去の太い一本道の夢、見せかけの贅沢やとてつもなく甘く美味しい感情の匂い、そして周囲の向上心や期待といった魅力的なものが詰まった『役者』という言葉をちらつかせます。あーあ、でも、仕方がない。
私はその言葉と存在に振り回されているのです。

そしてつまり、あれも、これも、私の芝居経験の無さ、理性・論理>感情・身体の思想の構図、デカすぎた夢の足枷によるものなんだろう。研鑽、足りない。努力、足りない。頭でっかち。むしろ、お馬鹿さんだ。しっかりなさい、私。やってみなさい、私。うん、つまり、お芝居を、いっぺん、させてください。そしたらまた、何かわかるから。待つより、やるか、うーん。でも誰かと、お芝居したいな。夢が、幻になって、こじらせてしまう前に。


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まだ、腹の何かが落ち着かないから今日はお寺に行ってみることにします。

昨晩、この懐疑と現実の摩擦で、秘めておくべきことが私の頭と腹をこぼれ落ちてしまって、ある人、それも役者さんを私の懐疑と悲しみの渦(超面倒くさいやつ)に巻き込んでしまいました。その人は、どうしても、どうにも、やさしいお人柄で、広く深い魅力があり、私にないものを持っていらっしゃいます。
つまり私が夢を見失うのにはぴったりの人で、私が焦がれ憧れるのにはぴったりの人であるのです。

そんな「役者」たちに出逢えて、囲まれて、
何者でもない私は幸せ者です。

だからこそ、私は今一度自分の足ですっくと立たなくてはなりません。
誰かを私の悲しみと不安で傷つけないように。
誰かを私の愚かさで妬まぬように。
私の夢には、私の手で触れられるように。

稚拙な戸惑いを、考察なんて言葉に載せて書き込んでしまいました。ここまでお読みくださった方は、本当に慈悲深い方なのだと思います。

ありがとうございます。

とかくにがんばりあそばせ、私。
ごめんなさい、も少し苦労とご面倒をかけます、
皆様。


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