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叔父への祈りに浮かぶもの

 小さい頃に一緒に暮らしていた叔父が倒れた。現在、近くの病院に入院している。
 下半身は不自由になり、もう歩くことはできない。認知機能の低下も著しく、まともな会話ができない状態になってしまった。
 近いうちに知り合いの勤めている病院に転院することが決まっている。
 回復が望めないとしても、どうか、穏やかに過ごせるよう祈るばかりである。

 いつか叔父は、山梨県にある瑞牆山に私を連れて行きたいと言っていた。だが、もう叶うことはない。
 何でもっと早く実現できなかったのだろうか。
 悔やんでも悔やみきれない。

 叔父は私が幼い頃から、休日によく登山へ連れて行ってくれた。特に、富士登山に臨んだときの記憶は、今も鮮明に覚えている。

 小学六年生のとき、テレビを見ていたら、ふと富士山に登ってみたくなった。そのことを叔父に伝えると「じゃあ今から行くか!」と、すぐに支度を始めて、そのまま数時間後には二人で車に乗って富士山へ向かうことになった。 

 山頂で御来光を眺める予定だったので、夜から出発しようと決め、車の中で少し仮眠をとった。これから地獄のような試練が待ち受けていることを知らずに。

 叔父に起こされ目覚めると、車の外は闇に包まれていた。こんな時間から山を登るなんて、未知の世界に足を踏み入れるようで胸が躍った。すぐにリュックを背負い、登山は始まった。

 叔父に歩き方を教わりながらも、私はペース配分など考えずにひょいひょいと軽やかな足取りで進んでいった。山頂が楽しみで、叔父の前を歩いていく。
 すれ違う人たちと挨拶を交わすと
「お兄ちゃん、随分と速いねぇ。子供はやっぱり疲れを知らないのかな」   
 と微笑ましそうに声をかけられた。

 休憩もあまり要らないと思っていたが、次第に凄まじい眠気と疲れが襲ってきた。ヘッドライトでなんとか照らされている足元。その一点を見つめるだけで、思考はどんどん停止していく。ただただ足を前に動かすロボットのようになっていた。もう身体が動かない。
 その場に座り込んで、何度も叔父を待たせた。叔父に何か励ましの言葉をかけてもらったと思うのだが、はっきりと覚えていない。

 休みながらも、力を振り絞って前に進み続けると山頂が見えてきた。だが、それは希望ではなかった。絶望だ。すぐそこに頂はあるのに、体力が限界である。

 まるで違う惑星に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。ふと周囲を見ると、所々に僅かだが草が生えていた。こんな酸素の薄い異空間に、草が存在することが不思議で神秘的に感じる。
 私は大きく息を吸い込んだ。

 ようやく山頂に着くと、即座に仰臥した。そこに嬉しさや達成感を抱けるほどの気力は存在しない。
 山頂は意外と賑わっていて、大勢の人が御来光を待ち構えていた。こんな苦労してまで見たいのか、変な人ばかりだ。と、蔑むように眺めていたが、数時間前までは自分もその一人だったのだと気づき、己の愚かさに情けなくなった。

「わあ」

 突然、周囲の声が湧く。雲の上が赤くなり、それは姿を現した。
 私はその光景を見た瞬間に、神様だ、あれが神様なのだと確信に近いものを感じた。そして雲海は奇妙な形をしており、動物のようにも、森のようにも、あるいは街のようにも見えた。これは神様の造形物なのだ。もしかしたら私も、ここにいる皆も、富士山さえも、そうなのかもしれない。
 神様が、うようよと僅かに動きながら、蛹が蝶になるように、その形をはっきりと現してくる。

「綺麗だな。頑張って来てよかっただろ」

 叔父が御来光から目を離さずに言う。これまでの苦しみや疲労はすべて浄化されていた。

 だが、御来光がすべての姿を見せた瞬間、神様ではなく、太陽に戻ってしまった。私の思い込みだったのだろうか。しかし、あの短い時間、私が神様を見たのは噓偽りなく、私なりの真実なのだ。

 儚さの中に美しさがあり、生がある。
 御来光も、私たちの命も。

 叔父の無事を祈るとき、私の胸の中に、あのとき見た神様の姿が浮かぶのである。

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