アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(7/12)

(7)ゲームのように解離する

このまったく胡散臭い「健康」は、我々の身体をどのように規定しているでしょうか。もう一度『生存の外部』から、國分の批判を引いてみましょう。

「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることのない記号消費ゲームのメタファーにも見える。[xiv]

「健康」を作り上げている要素のひとつが「消費社会のロジック」であるという指摘は、速水が指摘する「フード左翼」的な消費行動とも重なります。一方で、禁煙と運動が長期的な恒常性維持に寄与することはたしかでもあり、したがってそれは社会の恒常性維持にも寄与します。この点で「健康」は、医学と政治のロジックによっても支持されている、という補足はせねばなりません。

しかし、そんなことよりも興味深いのは、この奇妙な価値基準に基づく行為生成がまるでゲームのようだ、というこの哲学者の直観ではないでしょうか。

そう、新しい「健康」によって、我々の身体はゲームのように解離しています。

國分は『暇倫』の増補版に寄せた論考「傷と運命」(これもまた『中動態』への転回の途上に位置する論考です)で、身体の輪郭の問題について触れています。國分は熊谷晋一郎が書いた「世界体験の中で次々に立ち上がる事象のうち、もっとも再現性高く反復される事象系列群こそが、「身体」の輪郭として生起する」[xv]という指摘を引きながら、「自己の身体」のイメージが形成される例として赤ん坊の指しゃぶりを挙げています。

この筋肉をこう動かせば、腕が上がり、親指を口に運ぶことができる、という事象が確実に繰り返されることに気がついたとき、一連の事象にかかわる「予測モデル」が獲得されます。この予測モデルによってはじめて、そこに含まれる一連の要素が自己の身体として囲い込まれるのです。

だとすると、新しい「健康」は常に自己の身体の外にあることになります。

ラーメンを「食べる」ことによる血糖値と血圧の上昇は、身体感覚としては決してフィードバックされません。生活習慣病とは患者になんの苦痛も、なんの感覚も与えない、いわばバーチャルな病です。このバーチャルな病を患った身体は、明らかに自己の身体から解離していながらも、切り離すこともできないもう一つの身体です。

こうして我々は、まさに中動的としか言いようがないやり方で、二つの身体それぞれが持つ行動原理のすり合わせによって「食べる」ことになります。「これを食べたい私」が「これを食べるべき私」を離れて眺めながら「食べる」のです。

まるで三人称視点のヴィデオゲームのようではないでしょうか。今日我々は、画面の中のキャラクターを操作するようにして、我々自身の「健康」をプレイしているのです。コントローラーのボタンを押すようにして、「健康」のための「記号」を消費しているのです。

このゲームは性質上、ルールもスコアも明示されない極めて不利なゲームです。深夜に腹が減ってラーメンを「食べる」という行為は、短期的な恒常性維持とはなんら矛盾せず、自己の身体が訴える生理的空腹感を満たすのには合目的的です。しかしあるとき、プレイヤーは深夜のラーメンが病める身体の「健康」のためにはよろしくない可能性がある、ということを知ります。自己の身体にとって、短期的には快楽としてしかフィードバックされない行為であっても、長期的には苦痛として作用する可能性がある、ということを知ります。

あくまで「可能性」です。しかし、この不確かな攻略情報が与えられるや、「健康」は地雷回避のゲームと化します。

痛みを伴わない地雷を踏んだのかどうかは、1か月ごとに訪れる病院でスコアを言い渡されるまでわかりません。スコアを見れば踏んだかどうかはわかるでしょうが、1か月の間のいつどこで地雷を踏んだのかはわかりません。これをシューティングゲームで例えるならば、自機が赤いオブジェクトを撃ち落とせばスコアが上がるのか、青いオブジェクトと接触すればスコアが上がるのか、正確なところが一切わからないままゲームが進むということです。

なんというクソゲーでしょう! しかしこの稀に見るクソゲーは、我々がそれをプレイすることをやめられない、というただひとつの理由によって、永遠に廃れることはないのです。『ハーモニー』でも、死ぬまで降りられないこのクソゲーをこんな風に揶揄しています。

Q:このゲームはいつまで続くのだろうか。
A:世界中の人間の体脂肪率が男女別にぴったり上下一パーセント枠内で一致するその日まで、継続してプレイしていただく予定になっております。途中で降りる方法は幾つかあり、例えば死ぬとか死ぬとか死ぬなどといった方法が用意されております。
自害した人々は、このゲームから降りたかったのではないだろうか。[xvi]

(続きます)

[xiv] 國分功一郎「生存の外部——嗜好品と豊かさ」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、 p79
[xv] 熊谷晋一郎「痛みから始める当事者研究」『当事者研究の研究』医学書院、2013、p235
[xvi] 伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫、2010、p217

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