太田充胤

内分泌代謝科医、批評家。旅行する批評誌『LOCUST』編集部。発言内容は所属機関と無関…

太田充胤

内分泌代謝科医、批評家。旅行する批評誌『LOCUST』編集部。発言内容は所属機関と無関係です。 ご連絡先→ydc924.lmd@gmail.com

最近の記事

【レビュー】ハラサオリ トライアウト『絶景』

できて間もないDance Bace Yokohamaにお招きいただき、ハラサオリさんのトライアウトを見てきました。 久々のダンス鑑賞、久々のレビューです。 やはり生はいいですね……思考が活性化しますね……。 乱文にて失礼します。 『Metawindow』 会場を訪れると、すでに白い壁にプロジェクタで映像が投影されている。 人間のかたちをした何かが、人間とは違うリズムでうごめいている。「それ」はときに1つの塊となって地面にへばりつき、ときに3本の足ですらりと立る。カタツ

    • 臓器について;エアコンもソーシャルキャピタルも母なる海のようなもので、

      今年の夏も熱中症の救急搬送、緊急入院は多かった。 自宅でエアコンを使ってなくて、というのは定番中の定番だが、エアコンが壊れていて、というケースもけっこうあった。こういうケースでは、エアコンが治るまで帰るに帰れないということがある。まあ、壊れたエアコンを修理できないまま生活を続けて熱中症になってしまうという状況は、多くの場合そもそそも生活自体がもう立ち行かなくなっていたということを意味するわけで、単にエアコンが治れば帰れるというものでもないのだが。 ともあれ、夏のあいだじゅ

      • 快楽について;優れたインターフェースは蟻地獄のようで、

        スカイプの着信音、気持ちいいよね、あれ気持ちいいようにちゃんとデザインされているんですよ、という話から始まるユーザーインターフェースについての一連のレクチャーをむかし受けたことがあって、もう細かいことはすっかり忘れてしまったけれども、音、形、色、触感、その他あらゆる感覚的な要素が人間工学的に不快でない、できれば気持ちいい、ということがサービスにとってとても重要なんだということだけは、なんとなく頭の片隅に残っている。 その少し後だったか、あまりに気持ちよくて驚いたのがブラウザ

        • 呪いについて;読みづらくてわかりにくい文体の練習

          あなたは別に、この文章を読まなくてよろしい。 明確にそう意思表示することのできる文体があれば、あらゆる呪いを無視できるような気もする。 読みやすい文章、わかりやすい文章、論理的で論旨の明快な文章、そういうものを書く訓練はたぶん幼い頃から様々なかたちで受けていて、おかげさまでそういう文章(だと一応は自分なりに評価できるようなもの)は、まあほとんど無意識のうちに書くことができるけれども、これは同時に、いかなる文章を書くときも傍らの架空の読み手に監視されることを避けられないという

        【レビュー】ハラサオリ トライアウト『絶景』

        • 臓器について;エアコンもソーシャルキャピタルも母なる海のようなもので、

        • 快楽について;優れたインターフェースは蟻地獄のようで、

        • 呪いについて;読みづらくてわかりにくい文体の練習

          税金の未納と医療機関の未受診はたぶんほとんどパラレルで、

          チュートリアルの徳井さんがズボラが祟って所得を申告していなかった話、今風に言えばわかりみが深すぎて、もはや安堵すら感じている自分がいます。 どういうわけか、ぼくは実際よりもかなり几帳面そうに見えるらしく、完璧主義者だとさえ思われることもしばしばありますが、たとえば住民税は毎年罰則金が発生したころに払いに行くくらいにはずぼらです。 もちろん払うつもりがないということでは全然ないのですが、とはいえ流石に俄然払いに行きたいという強いモチベーションも特にないので、積み上がった督促

          税金の未納と医療機関の未受診はたぶんほとんどパラレルで、

          依存について;スマートフォンは臓器のように魔法的で、

          依存、という表現がやや雑に扱われているなと思うことがあって、SNS依存、は比較的よいが、スマホ依存、となるとちょっと妙だな、とか、微妙なラインがある。 外来に、普段は飲まずにいられるけれど調子が崩れると飲んでしまうというアルコール依存症の患者さんがいて、先日また飲んでしまう期に入ったその人が「もうね、飲んでるんじゃないの、飲まされてるって感じなの」と教科書のようなことを言っていた。依存というのは、こういうことである。 Twitterにはそれほど投稿しないが、見てはいる。投

          依存について;スマートフォンは臓器のように魔法的で、

          ネザーランド・ダンス・シアター

          2019年7月、世界的なコンテンポラリーバレエカンパニー、ネザーランド・ダンス・シアター(Nederlands Dans Theater、NDT)が13年ぶりに来日した。もちろん僕は初見である。かつてカンパニーを率いたイリ・キリアンの名前くらいは聞いたことがあったが、映像を見たこともなく、今回の来日公演の存在も唐津絵理さん(@eri_karatsu)にお声がけいただいて知った。 会場を訪れると、10歳になろうかという子供から80歳に近いであろう年配の方まで、老若男女様々な観

          ネザーランド・ダンス・シアター

          クリウィムバアニー「NΔU」

          2019年6月21日、シアタートラムでクリウィムバアニーの「NΔU(なう)」を見てきた。普通にかっこよくてかわいいので頭空っぽで楽しめてしまうタイプのダンス公演だったが、いったい何が面白かったのだろうとあとから反芻するうちにまたじわじわ面白くなってくるというスルメ系の公演でもあった。 「クリウィムバアニー」はダンサー・振付家の菅尾なぎさ率いるダンスカンパニーで、公式サイトに「ダンサーのみならず小劇場界の女優陣などから絶品乙女を選りすぐり」とあるとおり、演者は女性ばかりである

          クリウィムバアニー「NΔU」

          ローザス「至上の愛」ROSAS ”A Love Supreme”

          1. 概観 2019年5月9日から12日にかけて、池袋の東京芸術劇場にローザスがやってきた。今回の題材は、ジョン・コルトレーンの組曲 ”A love supreme” だ。 驚いた。何度でも見直したい公演だった。 それは一言で言えば、個別の身体とその個性を魅せることと、ユニゾンを踊ることがまったく無理なく共存していることの驚異だった。あるいは、身体が音楽とつかず離れず、 与えられた音=役割に没入したり、そこから遊離して別の音と戯れたり戯れなかったりするということを、極めて

          ローザス「至上の愛」ROSAS ”A Love Supreme”

          内科医が落合陽一を擁護しつつ批判し言いたいことを言う(文學界対談について)

          文學界に掲載された落合陽一・古市憲寿対談が、朝日新聞に掲載された磯崎憲一郎の書評を契機にtwitter上で大炎上した。問題視されたのは、「お金がないから社会保障費を削る」という話題。 既に喧々諤々議論されている通り、このやりとりはいくつかの点でナンセンスなのだが、それを「想像力の欠如」「身体性の欠如」と切って捨てる磯崎の批判もややズレている感がある。とはいえ、twitter上にあふれかえった批判もひとつにはこのタイプだった。 ぼく自身のツイートはそういうつもりではなかった

          内科医が落合陽一を擁護しつつ批判し言いたいことを言う(文學界対談について)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(12/12)

          (12)おわりに —アートとしての病— 「健康」を目指す「治療」にはさまざまなアプローチがあります。 オートをマニュアルに解体する、というのは、専門的には認知行動療法と呼ばれるやり方に近いかもしれません。それは従来治療者を必要としましたが、リブレのような形で身体へのアクセス性が確保されると、自ら「食べる」パターンを再構成できる人も出てきます。一方でオートプレイをオートプレイのまま自然に矯正していくのが、たとえばナッジと呼ばれる行動経済学的なテクニックであったり、環境調整と

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(12/12)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(11/12)

          (11)自由と強制、オートとマニュアル しかし考えてみれば「健常者」だって、というか健常者のほうが、そういう風に生きているかもしれません。言うなれば「イライラする」と感じてから「ラーメン食おう!」まで一足飛びです(私だけかもしれませんが…)。 自分は本当に腹が減っているのか、自分の身体が欲しているのはラーメンよりスシではないのか、そういえば一昨日もラーメン食べたばかりではないか、そんなに塩分とって血圧は大丈夫か、といった本来あったはずの問いは、ここではすべて省略されている

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(11/12)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(10/12)

          (10)身体の解離を生きる 國分がスピノザを引きながらたどり着いたのは、我々人間のすべての行為は能動態でも受動態でもなく、中動態として生成される、という結論でした。 そのうえでスピノザ/國分は、結果として生成された「食べる」という行為が「食べたい」私によって十分に説明可能であること、つまりは自分の本質を十分に表現していることを理想としました。國分はこれを、スピノザの表現を借りて「自由」であると言います。そして自由であるための方法として提案するのが、すでに書いたように「ちょ

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(10/12)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(9/12)

          (9)「健康」のオートプレイ …しかし、本当にそうでしょうか? 残念ながらそうではありません。奇しくもリブレの登場によって、その方法だけではうまくいかないことが証明されてしまいました。簡単なことです。アクセス性と操作性が確保されていることは、自ら身体を操作することの必要条件ではありますが、十分条件ではないからです。 ひと昔は「お任せ医療」といって、医者が飲めといった薬を飲み、医者が受けろと言った手術を受けることが患者行動のすべてでした。しかし90年代以降、医者が握ってい

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(9/12)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(8/12)

          (8)魔術としてのWatchMe このゲームとしての「健康」という見立ては、ミァハが問うた「身体の主権」の問題をより詳細に書き直すことをも可能にします。 「身体の主権」をたとえば「我々の身体は誰のものか?」という問いに還元するとき、主に問われているのは「身体の所有権」です。身体が私のものである一方、社会のものでもありうる、という可能性が、臓器移植の社会制度化を可能にし、「公共的身体」のアイデアを可能にします。しかし、これは「身体の主権」の一論点にすぎません。たしかにゲーム

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(8/12)

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(7/12)

          (7)ゲームのように解離する このまったく胡散臭い「健康」は、我々の身体をどのように規定しているでしょうか。もう一度『生存の外部』から、國分の批判を引いてみましょう。 「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることのない記号消費ゲームのメタファーにも見える。[xiv] 「健康」を作り上げている

          アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(7/12)