先生になりたい甥っ子に資本主義を語った話

先生になりたい甥っ子に 資本主義を語った話。

[ Vol.002] (3301文字)

お盆の親戚の集まりでいい感じにアルコールが入ったころ、ぼくと中学生の甥っ子と鳥取のおじちゃんという、日ごろ滅多に揃わない3人でその甥っ子の将来の話になった。

甥っ子は小学生の頃から「学校の先生になりたい。」と宣言していた。ぼくは以前から、もうちょっと大きくなったら他の職業を目指すだろうと高を括っていたんだけど、彼の意思は揺らぐどころか逆に固くなっていて、かなり具体的な進路まで考えていたのだ。

甥っ子が先生になりたいという意思を聞いて鳥取のおじちゃんはご機嫌だった。おじちゃんは音楽の先生として長年教育に携わっていた。優しくて包容力もあり話も面白い。父親としても3人の子供を立派に育て上げた。お世辞抜きでぼくにとっては理想の先生像だ。甥っ子が先生になりたいと考える何割かはおじちゃんの影響もあるんだろうな。

ただ、そんな二人が醸し出すふんわりとした雰囲気に対してぼくはどうしようもない違和感を感じ、その考えに軽く反対したくなって自分の意見をつらつらと語ったんだけど、あまりうまく伝わった自信がないのでこのnoteに自分なりに書いてまとめてみようと思う。


学校は資本主義のシステムとは真逆なところ

今の日本の根本的な社会の仕組みである資本主義の元来の姿は物々交換。つまり自分が持っていないものを持っている人がいたら交換意欲が湧き、そこに価値が生まれる仕組み。実際はスムーズに交換するにあたって共通の尺度として「お金」が介入するのでそこに目が行きがちだけども、基本的には人と違ったことが出来る人、人と違ったものを持っている人に価値があるというのが大原則。

みんながお米を作っているところでお米を作っても中々交換してもらえないどころか価格競争に巻き込まれちゃうけど、例えば誰も作っていない珍しい作物を作ったら交換意欲が湧くし、しかもそれが美味しければブルーオーシャンだ。

ところが、学校のシステムを考えてみると資本主義と全く逆のことをしているということがよく分かる。みんなで同じことを勉強して同じテストを行い、受験という同じゴールに向かって進んでいく。テストではオリジナリティーのある回答で加点を貰えることはないし、だから当然100点以上を取ることも出来ない。

一方で社会人になって色んな面白い経営者や人に出会うと、いわゆる高学歴の人は思ったより少ないことに気が付く。高学歴の人は決められたルールの中で競争するのを得意としてきてた人たちであって、人と違うことをするのは基本的に苦手としている。だから学歴社会で勝ち残った人は決められた同じことをすることは得意なんだけど、人と違うことをしてきてないのでオリジナリティーのあるものを作るのは苦手なのだ。

さっきのお米の話で言うと、高学歴もしくは真面目に学校のシステムに浸かった人は誰よりも美味しいお米を作ろうとはするんだけど、決して人と違った作物を作ろうとはしない。超高学歴の人はまだ良い。現状の技術で作り得る最高に美味しいお米を作る方法を最短で学び、作ることが出来るだろうから。ただそうじゃない人にとっては同じ道を歩もうとする事はいつまでも這い上がれないアリ地獄のようなものだ。

学校は何のためにあるのか?

では"徹底的に同じ事をさせる"という、資本主義社会に出た後に不利になってしまうであろう競争方法を身にしみるまで教える「学校」は何のためにあるのだろうか?ということになる。

識字をはじめとした基礎的な学力や社会の基本的なルールとその対応力、道徳といった、おそらく小学校卒業するくらいまでに達成してしまえるであろう最低限の部分は社会的に当然必要なものなのだが、国が学校で国民を教育し、学歴社会というふるいで振り落としていくのは簡単に言うと単に国のため、つまり富国強兵の概念によるものだ。

国が強くなっていくためには強くて優秀な人材が必要であり、学歴社会のシステムは国が国家公務員としての優秀な人材を探すための長期スパンの就職試験、上位0.01%の人たちを探すための壮大な篩(ふるい)かけを行っているのだ。

まぁもちろんその0.01%に入れなかったら地獄というわけではなくて、(感覚的には)上位20%くらいの人はその学歴社会の競争で培った知識と知恵とで社内競争力のある大企業という巨大組織の優秀な人材として豊かな人生が送れるのだろうと思う。そこに何も違和感を感じないまま退職の日を迎えることが出来るのであれば、だけど。

問題なのは残りの80%の人たち。
ある程度の規模の会社であれば再び学歴社会の様に社内での競争に参加してまた上位を目指せばいいけれども、日本の会社の99.7%は中小企業であり、労働者の70%以上が100人以下の会社で勤めているという事実から考えると、超大企業に入れなかった時点で社内競争というものは現実的には存在さえせず、「自分で何とかする方法」を考えていかないといけない。

ここでいう「自分で何とかする方法」というのは、「起業する」という選択肢だけではなく、「自分の勤めている会社を自分の力で何とかする方法」を考えていかないといけないということ。

そこには結構なオリジナリティーが求められる。

つまり、学校での教育現場で叩き込まれる、みんなで同じことする意識教育は、実に80%以上の人たちにとって足枷になってしまうということ。
これから資本主義の社会でいきていくにあたって、人との差異に価値をつけて勝負していかないといけないのにその方法を全く教わってこなかったどころか、真逆の方法を叩きこまれてる状況からのスタートになるのだから。

学校の先生はほぼ資本主義を経験していない

そもそも、学校の先生は基本的に大学の教育学部を卒業し、試験に合格してなる人がほとんどで、10年以上資本主義の世界を経験した人が中途採用で先生になるなんてことはレアケースなんだと思う。
つまり、多くの生徒が将来的に放たれるであろう「資本主義の社会」を経験していない人が先生として指導しているという図式なので、「人と違うことをしなさい」という素敵な先生もいるかもしれないけど、それは実体験によるものではないのだ。

自信をもって「人と違うことをしなさい」と言える先生になって欲しい。

先生という職業は人格形成において非常に重要な尊い職種であることは間違いないし、恐らくAIがどう進化しようと将来にわたって無くなることはない。
ただこれからは「基礎学力があり道徳的に優れた人間」を育てるだけではなく、「資本主義の世の中で生きていける強さと思考力」を何よりもよく、そして早いうちに教えることが大事なのだと思う。

成績上位20%の人たちだけが上手く生きれる方法だけではなくて、残りの80%の人たちが世の中に出たときにきちんと資本主義の世の中で戦っていける方法であったり根本的な仕組みをもっと伝えていく教育をしないといけない。「社会に出れば分かるよ。」ではダメなのだ。小学~高校と12年間に及ぶ教育で身体に染みついた反資本主義的な感覚は簡単には抜けないのだから。

「人と違うことをしなさい。」

ということを単なる一般論ではなくて論理立ててひとつの正攻法として自信をもってしっかり生徒に教えてくれる先生が求められているし、そのためには教師になりたい人は先ずは資本主義の世の中を経験してみるべきだと思う。一度教員資格を取った後で数年どこかの企業に就職してみるのもいいし、学生時代の内に自分で起業してみるのもいい。

甥っ子が最初から他の選択肢を無視して「先生になりたい。」という考えはそのような観点からぼくにとって違和感を感じたのだ。

優しくて成績もよく運動もできる申し分ない甥っ子なので、間違いなく(これまでの定義でいうところの)「良い先生」になれるだろうという確信はあってそこは全く心配していないけど、中学生の彼にはまだまだ選択肢はあるはず。これからもっと他の選択肢を真剣に考えて挑戦し、人と違うことをやり尽くして、その上で「先生になりたい。」という決意を持った時、ぼくは心から応援したいと思う。

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