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感官を凌ぐ世からの滴

シュタイナーの普遍人間学    第3講 レポートです。


本当に、この読書会はまったく目に見えないもののことをずっと考えている。参加者みんなして、その見えないものを必死で見ようとしている、そんな読書会です。


そんなことに意味があるのか、と思うかもしれませんが、物質主義の世の中であまりにも目に見えないものを除外しがちな時代、

でも見方を少し変えると、目に見えているものの方が、本当は全体のほんの一部なのだと思うのです。



その見えないものの中に、私たちが忘れてしまっている大切なことが隠されている。

それは、「考える」ことからしか、見ることができないのです。




この講では、地球に生きる人間がどういう存在であるのか、他の鉱物や植物や動物と私達人間は何が決定的に違うのかということが、まさに今までの常識をひっくり返すような感じでせまってきました。

  人間と鉱物、植物、動物は何が違うの?
  人間は地球にとってどんな存在なの?
  宇宙、地球、人間、動物、植物、鉱物、
         この多様な世界はどうしてこのようにあるの?


まだ問いの答えは完全に解けていませんが、
人間と鉱物、動物、植物の違いは「考える」ということでした。


人間だけが与えられたもの、それは「考える」ということを通してエネルギーを弛まず新しく生み出していく力。


自然の法則の中で、鉱物も植物も動物もそれぞれの種によって精神をあたえられている。それらは、生まれた時から完全な状態で、安らかな精神の世につつまれている。


しかし、人間だけは、その人個人、一人一人に精神が与えられている。

私は、人間がなぜ人間だけが、そのような形で存在しているのだろうと思います。


神様という存在、精神の世というものは、なぜ人間だけ特別にしたのだろう?

なぜ、争ったり、破壊したり、傷ついたりするような感情を与え、何を考えささているのだろう。

人間も、植物や動物のように精神の世の一部として生かされていたら、もっと平和ではないだろうか?と考えたりします。



また、この章では人間が生まれて、フィジカルな体を得て、死ぬまでの間に私たち人間には感官をしのぐ世から「なにか」が降り注ぎ、私たちを弛まずなりかわらせているといいます。

そうした、なりかわらせた人間の死が、地球に進化のプロセスを歩ませているといいます。



壮大なスケールの話です。

2回目なので、そういう地球のあり方への驚きよりも、
その感官を凌ぐ世からの滴、その「なにか」っていうのは、なんだろうと、わかりそうで、わからない。
もっとはっきり掴みたいと思いました。


その人間が生まれてから感官の世から降り注がれている滴。


そして、人間だけが持つ「考える」力。


きっとこの二つは互いに深く関わりあっている。


「人はいかにして自由になれるか」ということが、
この第三講のテーマだと、最初に諏訪先生が言いました。




「人が自由になるとはどういうことか。」


それはまぎれもなく「考える」ことができるときなのだと。

他人の考えではなく、「わたし」が自分で考える。
これは、結構難しいのではないでしょうか?


本当に自分自身で「考える」を、私たちはしているのか?

誰かの意見が自分と似ているから、同じ考えだったり、
今の時代の流行りで物事を考えていたり、
感情的に考えていたり。



まぎれもなく、「考える」こと、

それは感官をしのぐところからその滴を受け取る行為なのかもしれない。

そのように「考える」ときこそが、「自由」なのだと。



そうなるために、私たちはどうしていけばよいのか。

耳にタコができるくらい、この読書会で先生がおっしゃっている、


「考えるを見る」


それが、自由への一歩なのだ。


私たちは、「自由」に向かってともに進んでいるのだと、

あらためて思いました。




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最後まで読んでいただきありがとうございます。



文:momo


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