見出し画像

オットーの「聖なるもの」を再評価し、今こそ使えるものへとなんとか展開させようとする試み

Robert A. Orsi, "The problem of the holy," in Orsi (ed.), The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge University Press, 2011, pp. 84-105.

<オットーの「聖なるもの」 要点>

[ルドルフ・オットー『聖なるもの』によれば]聖なるものは直接的で、否定できない現実である。[……]人びとは「私にはこれが聖なるものと思われる」「これが聖なるものだと言われている」などと語るわけではない。また聖なるものを、他のどこかに存在するリアリティの徴としてとらえているわけでもない。それは比喩や象徴ではないのだ。聖なるものは、ここに、実際に、私の前にある。そうでなければ聖なるものではない。(86頁)
聖性は[……]根源的に、また現実に彼[筆者の叔父]の世界を変容させた。こうして私には、宗教研究において「聖性」という用語を単に排することができなくなった。この語が体験においていかに不安定で当てにならず、用語としていかに欠陥と問題をふくんでいるものだとしても、である。これが、聖なるものという観念にまつわる私の深いところの問題、批判的分析と脱構築のあとにたどり着いた場所なのである。聖性が記述するのは、文化と歴史のなかにある、曖昧ではあれリアルな効果をともなった何かリアルなものである。私が言おうとしているのは、明晰に善なり悪なりであるような何かなのではない。また、[……]時間と空間から自由な何かなのでもない。私が言おうとしているのはむしろ、社会的な部分部分の総体より以上のもの、人間の創造力、継承、環境から生まれてくるが、人間からは独立してそれ自体の生命をもつようになる何か、なのである。(91頁)
[オットー曰く]聖なるものは「私たちの現実構成のなかには場所をもたないが、絶対的に異なる現実構成に属する何か」として、すなわち、自己の外側に在るものとして体験される。それは「全くの他者」である。戦慄の神秘[オットーの造語、別の造語であるヌミノーゼ的なものと同義]によってかき立てられる感情は、「畏怖」、驚嘆、この世ならぬ恐怖であるが、しかしてヌミノーゼ的なものはまた、魅了し[……]強制する。これらの感情が、ヌミノーゼ的なものの客観的リアリティの証拠である。オットー曰く、その証拠となる場は「「這いずり回る肉体」の兆候」である。(92頁)

<オットーの「聖なるもの」への批判 いくつかのうちの一つ>

宗教研究の分野のなかでは、「聖なるもの」という持続的問題において、人間的体験の本性に関するオットーの仮定がとり組まれねばならない。とくに、体験と文化(言語、知の方途、記憶の様式、権力と権威の構造などなどを含む文化)との関係に関する仮定である。一概念としての「聖性」の命運、および理論家たるオットーの立場は、20世紀においては、マーティン・ジェイ(Martin Jay)が言うところの「体験の逝去」、すなわち、「文化関連の本質はもうすでに常に媒介されている」という普及した仮定からの結果である「体験の逝去」と密接に連関してきた。ジェイはヌミノーゼ的な感情の独自なる(sui generis)本質を断固として強調する。曰く、「それは自然的経験の日常世界のなかに場をもたない」。さらに、その普遍的同一性(構築の文化的特殊化へともちこまれる以前のそれ)も強調する。こうしてオットーは、聖なるもの(さらにその延長として、宗教そのもの)のリアリティを歴史と文化の外側に位置づけたということになる。しかし、文化と心理に関する近代的な思考方法においては、歴史と文化の「外側」などありえない。社会環境、関係性、世界についての考え方、世界の想像の仕方、人間が生まれ落ちる自己の理解の仕方、これらに先行する場、外の場などありえないのである。(97頁)

<オットーの「聖なるもの」 再評価>

これらの批判のうちいくつかは的を射ている(オットーは本当にキリスト教の卓越性を信じており、地球上の宗教についての階層的、西洋中心的な見方に寄与した)。一方、他のいくつかの批判は、聖なるものの理論的な伝統を誤って解釈したもので、ときには、カント主義という必須な文脈への位置づけにも失敗している。しかし、こうした諸問題を認めることができるとともに、われわれはなお、[オットーなど、聖なるものの]理論家たちは、ある重要かつ必要なプロジェクト[……]へと乗り出したのだと認めることができる。彼らがめざしたのは、宗教の真に真実であること[the really realness; ギアツの用語]の説明である。その説明を、自然主義的な説明の絶対的権威を紛糾させ、疑問に付すことでなそうとし、また、世界と時代を股にかけた出来事と体験の巨大な配列を、理論の俎上へともたらす、比較の枠組みのなかでなそうとした。この理論家たちは、その目的意識において、近代西洋の知的文化のより広範な流れに属していたのである。(99頁)
より以上のもの[the more; W・ジェームズの用語]の理論家たちは、心理的・社会的要因の総和によって説明されうるようなものとしてのリアリティを超える文化内現象のヴィジョンに様々な名前を与えてきた。(100頁) [ここであげられる理論家: Friedlich Fries, Michel de Certeau, Jean-Luc Nancy, D. W. Winnicott, Christopher Bollas, Stanley Tambiah, Gananath Obeyseker, Franz Rosenzweig, Walter Benjamin, Dipesh Chakrabarty]
ここで、より以上のものの伝統[the tradition of the more]は、その知的関心において深く分析的であることを思い出しておくのがよいだろう。[……]理論家ダニエル・ゴールド(Daniel Gold)曰く、宗教研究において聖なるものを記述(もしくは喚起)する際のポイントは、「宗教的対象の敬虔なる評価」ではない。それは宗教実践者の仕事である。そうではなく、「理性による宗教的対象の測深、人間的に重要な何かをそこから識別すること、そして最後に、そこにあるかもしれない潜在的に計算不可能な重要事のなんらかの局面を計測すること、これらを同時に試みることである」。(102頁:強調ママ)
理論家たちによれば、聖なるものは(オットーの言い方で)「客観的で自我の外にある」と体験される。客観的にリアルなものとして知られるのであり、妄想や幻想としてではない。それは、「見えざるもののリアリティ」とジェームズが呼んだものである(ただし、それはまた実にしばしば、ヴィジョンや対象や人物において見られる)。根源的に他なるもので、異常かつ完全に異質である。聖なるものはここにおいて真なる真実性として遭遇されるという事実は、際立つ距離を失わせはしない、むしろそれを引き立たせる。[……][聖なるものの]体験は関係的、間主観的である。聖性が生じるのは、互いに直接的、無媒介な仕方で現前する人びとのあいだにおいてある。クリストファー・ボラス(Christopher Bollas)曰く、超越的な瞬間とは「ある人が他の人のなかへと互恵的に無限に落下すること」によって特徴づけられる(オットー自身が述べるところでは、ヌミノーゼ的なものの体験が共有されるのは、「他の人の心のなかを過ぎゆくものへの、浸透的で想像的な共感」という方途による)。ひるがえって、聖なるものの体験はこうしたつながりを強化する。かくして特有につながった人びとのあいだでこそ、現象の真に真実なものが決められ、知られ、確定される。そして、そうした人びとにおいて、真に真実なものはみずからの生命をひきうける。聖なるものの真実は広範囲にわたる。それは外へと動いていき、対象や人物(手始めに、この体験に最も直接的な人物)、さらに場所や人的範疇(支配者、聖人、治癒者)を変容させていく。[……]聖なるものは過剰である。過剰な聖なるものに応答して、人間は儀礼や物語を生む。聖なるものの理論家の全員が主張するところでは、その体験は道徳性についてのものではない。それは善悪の範疇のなかへと現れでるのではなく、またそうした範疇に封じこめることもできない。聖なるもののキーとなる範疇は真性(its realness)である。聖なるものはそれ自体の生命と効果をひきうけるのである。[……]最後に、聖なるものは、その体験者を徴づける。このことを過大視せず、あるいは倫理的強制へと変化させてしまうことなく(そして、恐れとか敬いとかのような、ただひとつの永続する宗教的状態などないとの認識をもって)、聖なるものは実存的に現前しつづける。それは社会的、個人的な語りの旋回軸となる。(102-3頁:強調ママ)
ここで「○○を信じる(believe in)」、「○○への信仰をもつ(have faith in)」といった表現が出てこないことに注意していただきたい。その理由は、聖なるものが真に真実なるものとして出会われるからだ。そうした言葉[believe、faithなどの語句]は、近代的な意味では、主観/客観という硬直した格子のなかでの主観的体験を含意してしまう余計なものであり、それが聖なるものとの出会いによって変化させられるのである。聖なるものの体験は、近代人が考えるところの真実(the real)の一定の境界線の数々、例えば、こちらとあちら、過去と現在、一人の人物とまた別の人物、こういったもののあいだにある境界線をぼやけさせる。さらには、近代知のあり方にとって大切な境界線の数々、例えば、複数の学問領域(一例として、心理学と歴史学)のあいだの境界線、意識的な知と無意識についての諸説明のあいだの境界線、そしてとくに、想像的なもの(the imaginary)と真なるもの(the real)とのあいだの境界線を不安定化する。この体験は新たな理論的語彙を必要としている。そのことが、この体験が新語造語をあれほど盛んに生み出してきた理由であり、私が 2+2=5 [という表現]として再区分してきたものなのである。(104頁)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?