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“ポスト植民地主義的な宗教研究” は、初学者向け入門書のなかで、こんなにも簡潔明瞭に解説されちゃってるんですね。喜ばしいことです

Anne M. Blackburn, "The text and the world." In: Robert A. Orsi (ed.), The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge University Press, 2011, pp. 151-67.

ちょいと長めの前置きから。

アン・M・ブラックバーン氏のこの論文が探求するのは、「宗教上の帰属とつながっているテクストの社会的な位置どり」です(163頁)。

日本語にするとややこしいのですが、この位置どり(the social locations of texts)とは、次のようなことだといわれます。

そうしたテクストへと人が関与していくことが、どのようにして、社会関係を条件づける実践で、またそれにより条件づけられる実践であるか、同様に、どのようにして、テクストとその編纂と挙行を良きもの、願わしきもの、力あるもの、効能あるものにするなにかしらの文脈限定的な観念を条件づける実践で、またそれにより条件づけられる実践であるか。(163-64頁)

この探求のため、ブ氏は、学説史=観念史的な概観をおこない、宗教論において二つのテクスト論が順に支配的になった(第二のものは、ほとんど無批判なまま通用していた第一のものへの根底的批判として登場した)と指摘します。

すなわち、「テクスト還元主義」と「批判的ポスト・テクスト主義」です(165頁)。

これらの立場を要約した部分があったので、こちらも訳出しておきます。

テクスト還元主義の立場では、小さなテクスのかたまりだけを熟考に値するものとしてまず隔離し、そのうえで、テクストの意図するところ、およびテクスト編纂のコンテクストという時代遅れの理解をもって、それら隔離されたテクストを読む。[一方、それへの批判として台頭した]ポスト・テクスト主義は、次のような確信をのきなみ問題化してみせる。すなわち、「宗教」や「宗教的伝統」といった用語は、啓蒙主義と植民地主義のプロジェクト以前の歴史的諸現象のいずれにも充当する、との確信。あるいは、かつての宗教研究者によって伝統にとって中心的だと定められたテクストは、そこから帰依、護法、哲学、神義論などなどを理解するための代表的なエントリポイントである、との確信。これらを問題化するのである。(165-66頁)

こうした文脈づけが、宗教学・宗教研究にとってどこまで一般的なものであるかは、議論がわかれるところでしょう。ともあれ、少なくとも、シカゴ大学系の宗教学を学び、コーネル大学で教鞭をとるブ氏の個人史にとって、あるいはその周辺のアメリカ宗教学界にとって、宗教学説史はこのような断絶をともなったものとして迫ってくるもののようです。

さて、前置きはここまでになります。私が本エントリで注目したいのは、ブ氏のこの論文を十全に評価してみせることではありません。そうではなく、ブ氏のいう「批判的ポスト・テクスト主義」の説明が、実に明確に“ポスト植民地主義的な宗教研究”の要約となっている、ということなのです。

“ポスト植民地主義的な宗教研究”が、かくも簡潔明瞭に約言されているのが、宗教研究の初学者向け教科書として編纂された本のなかである。しかも、その限界と陥穽が指摘され、さらには、その乗り越えの試みまでがなされている――この事実は私をとても勇気づけてくれます。というのも、日本語圏では、やっと“ポスト植民地主義的な宗教研究”が共通了解となったぐらいのところであり、しかも、この潮流をつき動かしている正義や幸の観念はおざなりにされていて、とても表面的、形式的な受容にすぎないと思われるからです。

このことを嘆くのは簡単なことなので、まぁここではおいておいて、“ポスト植民地主義的な宗教研究”とはどのようなものか、ブ氏の見事な要約を訳出しておきたいと思います。

「批判的ポスト・テクスト主義」と題された節の冒頭部分です。

ここ数十年、宗教研究者は[…]テクスト還元主義の態度に重大な注意をはらい、そのルーツをヨーロッパ近代性の精神史(the intellectual history)にもとめてきた。この探求によって見出されたところでは、英国とヨーロッパの帝国主義的、植民地主義的な歴史こそが、アカデミックな宗教学が生じた決定的なコンテクストなのである。これにより、歴史上の宗教と生きられている宗教に対して宗教学がとるアプローチが形成されたというわけだ。こうした説明において中心的なのは、植民地化された領土の文化と歴史に関する学的な調査著述が、植民地支配の政治的=制度的要請を養い、またその要請によって養われたという、そのあり方についての批判的調査である。こうした観点は、最もよく知られるところではエドワード・サイードの古典的研究『オリエンタリズム』に今も関連づけられているわけだが、それによれば、当時において比較的新しかった、「人種」「民族性」「文化」「ネイション」そして「宗教」といった分析枠組み(それらは部分的に、ヨーロッパの貿易と植民地化によってもたらされた、遠隔の土地土地に関する新しい情報の産物であった)により、複数の用語が形づくられた。それらの用語こそは、植民地化された領土の人びとや社会空間を、学的言説と植民地行政の実際の用に給するべく、認知、翻訳するものであった。アカデミックな宗教学は、いくつもの大洋にひろがるネットワークのなかで発展した。すなわち、植民地行政官、大学教授、私学者、植民地現地の宗教指導者、キリスト教宣教師らがひとつとなって、比較的身近だったユーラシアのアブラハム的諸伝統[ユダヤ教、イスラム教など]に少なくとも部分的に類似するとみなされる、諸々のかたちをとった信念と実践を調査していったのである。この過程のなかで、近代ヨーロッパの神学的、教会的、学的な共同体を特徴づける、宗教的テクスト性への特有のアプローチにより、複数の用語を形づくられていった。それらの用語は、植民地化された領土のなかにある献身と儀礼と理知の実践に関する研究を、新興の「宗教科学 science of religion」のためのデータへと翻訳するものであった。これをなした解釈上の視座は、現地の宗教指導者と知識人たちのものであった。彼らは、外国人の対話相手のために通訳者、情報提供者としての役目を果たした。そうした現地の仲介者たちは、急速に成長する現地印刷メディアや教育機関のなかで、影響力ある声をあげる人たちとして現れでることになる。(153-54頁)

さらに次の段落。

このように複雑な地球規模での交換がもたらした著しい結果としては、植民地化された領土のなかでの、現地の宗教実践者たちのあいだにおける、(単数の)宗教、および(複数の)宗教伝統に関する新しい理解の創出があったわけだが、同時に、これら新たに認知された諸伝統に関する情報は、植民地のメトロポリスへと輸出されもした。例えば、アジアでは、ブッダ、シヴァ、ヴィシュヌといった肖像の周りに集積した儀礼的、献身的、美的、知的な諸実践―かなりの地理的空間にわたって、似たものとして認識可能なかたちで存在する諸実践―が、新たな網羅的ヨーロッパ式分類学のなかで、ヒンドゥーイズムやブッディズムといった諸宗教として解釈されるようになった。これらの伝統に関連づけられたテクストの最古層は、その古さゆえに、またその言語(サンスクリット語、古代中国語、パーリ語、などなど)の「古典的」偉大さのゆえに、それぞれの宗教伝統の本質と関連づけられるようになった。これらの宗教が、調査対称として、ひき続いては帰属先たる伝統としてかたちをなすようになると、初期、あるいは「元の」実践は高く価値づけられ、中世や同時代のかたちはそこからの退歩だとみなされた。(154-55頁:強調ママ)

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