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「生きられる宗教」とは、すごく具体的な生活と、すごく抽象的なかたち、その二つを同時に、矛盾なく生きていること

以前書いたブログ記事、ちょっと手直しして転載します。

インドのことを書いていますけど、きっと、他のいろいろな場所の、いろいろな「生きられる宗教」のあり方にも当てはまるんだろうな、と思います。

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 インドでは通常、宗教的帰属は親から子へと明確に受けつがれていくから、人びとは家族もしくは血族の単位で、公式の「宗教」範疇におさまっている。「ヒンドゥー」とは「ヒンドゥーイズム」(ヒンドゥー教)の信徒であり、「ムスリム」は「イスラーム」(イスラム教)の信徒であるというわけだ。このことはインドの社会生活の常識である。自分が一族ともども「ヒンドゥー」であるとか「ムスリム」であるとかいった明確な自認は、日常生活のあたり前のことがらである。そこにタブーにあたるものはない。

 そしてこの自認は、単なる形式的な集団分類というだけにとどまらず、人びとの生活のなかで積極的なはたらきをしている。すなわち、歴史や文化、血縁や社会、価値観や世界観などに、私という存在を結びつけ位置づけるというはたらきである。人生の喜びや悲しみを「宗教」帰属と織りあわせながら、人びとは毎日をつみ重ねていく。それはたとえば、「ヒンドゥーとしての誇り」とか「ムスリムとしての生きる道」とかいった言葉で表わしうるものによって、それぞれがそれぞれの人生をささえていくのである。「ヒンドゥーイズム」「イスラーム」などの「宗教」範疇自体は、近代の正統的な宗教分類学、およびそれをそのまま採用する政府公式の法的な「宗教」区分としてあたえられたもので、そのかぎりでは形式的な区分にすぎないのだが、一方では、国民一人ひとりのアイデンティティと呼ぶにふさわしい内面性をささえてもいるというわけだ。

 しかし、である。ここで忘れてはならないのは、こうして生きられる「宗教」範疇には「共同体」と呼ぶにふさわしい共同生活がともなっているわけではない、ということだ。インド国内だけでも「ムスリム」2億弱、「ヒンドゥー」10億超の人たちがいる。家族や村落のような、顔つき合わせ、姓名素性を承知する関係性は成りたちようがない。つまり、この「宗教」範疇には、きわめて高い程度の観念性、想像性のレベルがふくまれているのである。

 私はここで、人間の集団的生に一般的な、具体性のレベルと抽象性のレベルとの継ぎ目ない連続体のことを問題にしている。具体的に説明したほうがよかろう。たとえば、次のような人物を想定してみよう――「わたしはヒンドゥーである」。わたしは願い事をするとき、職場の近くや自宅の近くの寺院にでかける。いつもきまってシヴァの寺だ。そこでは顔見知りの「ヒンドゥー」にしばしばあい、挨拶をかわす。僧侶の「ヒンドゥー」もよく知っている人物だが、人格者だとは思わない。唱える祈りのことばは、幼い日、家族とならんで、実家つきの僧侶より教わったもの。これがわたしの「ヒンドゥー」としての人生である。さてところで、世界には、わたしが会ったこともない「ヒンドゥー」が大勢いる。その人はわたしと同じ神を崇拝しているかもしれないし、していないかもしれない。祈りのことばは同じであるかもしれないし、違うのかもしれない。「ヒンドゥーイズム」とはそのような多様性を許容する。どのような人であれ、私たちは同じ「ヒンドゥー」なのである。そこには個別具体的なふれあいや根拠なぞはなくてよい。アカデミズムの偉い学者が認めたのか、ヴェーダにそう書いてあるのか、わたしは了解していないが、とにかくわたしは、他の人たちとともに、「ヒンドゥー」という抽象的で超歴史的な集まりにもうすでにおさめられているのだ。

 宗教分類学が設定した範疇を人びとが実際に生きるということは、こうした二面性を矛盾なく生きるということである。一方で、人と人との触れあいのなかでいとなまれる具体的な考えや行い、それによってよく見知った人たちのあいだにそだつ仲間意識などがある。他方、それらの個別具体的な出来事にはいつも、超歴史的で普遍的な概念が、根拠をもたない自明の真理としてさしはさまれている。

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