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年金破綻

 あれこれなんとか今まで生かされて来たが、法治国家であるこの国から、公的年金と言うモノをもらえる年齢になってしまった。面倒な手続きと、各種規約に縛られた国からの、お恵み頂戴である。 

 もちろん自分が支払った一定額を取り戻し、さらに、それ以上は、現役世代から強引に受け取る制度なのだが、これも、私自身、いつまで命が有り、生きていて、受給する事が出来るのか、年金を収益と考えると、制度そのものは、生涯をかけた国家レベルでの合法的賭博。一種の「かけ」の様なものだ。

 一般的に多くの場合、国民に支払われる年金そのものは、率が悪く低額な上(生涯収入が少なかったのは自分のせいではあるが)面倒な年金請求の手続きをしなければならず、現行では、高齢な私が、今以上、働いて稼ぐチャンスを社会は受け入れず、身体もこれ以上の労働には耐えられそうにないと悲鳴を上げ、仕方なしの、生きるか死ぬかの賭け事である年金に頼る自分の嘆きを後目に、今回、あまりにも額が低いとボヤいた私は、目の前、現役世代から激しくつっこみを受けてしまった。
「低額な年金受け取る年齢になんて、なりたくないが、なってしまった・・」
「何言っているんですか?!〇〇さん!〇〇さんには年金が出るんですよ!年金がっ!」
「普通出るだろ?」
「これから先、私達の世代、年金なんてあると思います?」
「それは・・・・」

 現役議員は、自分達の政治史に名を残す為、唐突で、マスコミ受けする抜本的と思われる何かの痕跡を打ち出す事が、相変わらず得意な様だ。自動車走行税もそうだし、感染症ワクチンに対する取り組み、そして、現行年金破壊制度案もその中の一つ。世間お騒がせソース。
「私達の世代、年金なんてあると思います!?」
先ほどの若い人達の言葉が耳をつんざく。

 政府は、今後、じわじわと年金廃止縮小する事によって、国民を不安に目覚めさせ、自己責任である個人投資や、個人資産管理に目を向けさせる。結果、議員目論見の通り、国の責任や負担は軽くなり、国庫としては国民収出の手間が省け、支出の抜本的改革と同時に、政治資金が潤沢になると言う、いつも通りの短絡的発想。
 年金制度廃止や縮小により、自分達、現役議員連中を含む、国政が楽になり、議員個人個人が非常に儲かるのである。
 現行首相が、その爪痕をいくらかでも残せれば、良くも悪くも「年金廃止縮小案可決」総理の名前は、歴史に刻まれる事になるだろう。

 今の若い世代が、将来の年金を諦めているとは思えないが、政府は本気でその廃止縮小案を、なんとかして捻出する為、議会を招集し、研究し、国税、血税を、その結果を出す為に、やはり国民の税金を使って自分達の道を造り、模索し続けていると言うのが現状。よりよい未来社会への目論見のはずの検討が、文字通り見当はずれなわけだ。

 もし、今後、その年金縮小廃止案が実現すれば、国家経済を含む、他人の生活なんて眼中に無い裕福で著名な人達がより楽になり、逆に庶民である一般小市民達がより苦しめられ犠牲になる。そして、それを成立させた本人達はもうこの世界にはいない。後は野となれ山となれ状態。その場しのぎの法案は自己利益達成の為だけの法案。
 
 そう、約半世紀迄昔、勿論、時代が違うし、世代が違うし、環境も、すべて「時代」で一括りするしかないのだが、とにかく何もかもが現在とは異なっていた時代。当然、考え方、意思、意識も違っていたのだが。その、約半世紀前には、年金の支出支払い等ほとんどなく、つまり高齢者の存在そのものが希少であり、資金は潤沢で膨大な額へと増大する一方だった。
 そして、当時の議員達は、なんと、そのはけ口として、厚生年金ホール等と言う、どでかい公費をかけ、無数の建造物を増設し続けた。ほとんど、こじつけとも思える建築物であったが、誰もその施策、つまり、増加の一途を辿っていた莫大な年金支払い留保資金の、軽率で誤った遣い道に疑問を投じる議員達の存在はなかった。

 とにかく厚生年金ホール類を多造し、それをどう活用するか、そんな事は彼らにはどうでも良かったのだ。安直で身勝手な議員達の見解は、増加し続ける膨大な年金資金を吐き出す蛇口をどれだけ増やせるのか、当時の彼らの目的は、それによる公共事業の発注、そして、庶民、国民の金によって利益を上げられる大手工務店からの票獲得。そのすべてが自分達、国家政治家、議員達が、潤う為だけに打ち立てられた政策。金はあるうちに遣え。

 もし、その時の議員達が、誠実な未来を見据えようとすれば、つまり、将来、すでに予測されていた少子高齢に於ける半世紀先の年金資金不足の可能性を、謙虚に想定する事が出来ていれば、人口分布や、未来には何が発生するかわからないと言う、誠実で賢明な姿勢を持つ事さえ出来ていれば、それら脳裏に固め、誠実な政策を行う事を研究し心掛けてさえいれば、今の様な年金資金不足政策を打ち出す必要はなかったはず。現高齢者達の笑顔は、すでに、半世紀前の議員政策によって打ち壊されていた事になる。
 今も未来も、弱者達を守ると言う、根幹たる政治本来の目的と姿勢、あらゆる可能性を、議員達がその優秀と思しき頭脳で、未来を予測する事が出来てさえいれば、今世紀の厳しい年金国情到来は十分回避できていたかも知れない。

 半世紀前の当時議員は自分達自らを犠牲にし、働く事を選択しなかった。だから、目を閉じ、簡単に思いつく自分達だけが潤う仕組みを、国民の未来を犠牲にし、成り行きに任せた。これが政治の世界で絶え間なく繰り返され、現時代に波及し、到達したにしか過ぎない。何事も国政結果は「後は野となれ山となれ施策」である。

 何はともあれ、人間が考えているこの世界は、それなりにしか稼働していないのだと思う。もちろん年金制度政策が充実していて、経済や政策をうまく回せている国もある。たまたまなのかも知れないが、その中の国民は、経済的にも、状況的にも、年金等に対して憂える事は無く、老年老体になっても生活に困る事が無いと言う。老人にも明るい未来のある国。
 
 しかし、この国、年金受給という、たったひとつの老齢対策すらうまく回せない国に未来があるとは思えない。これがこの国家の実情であろう。この国は問題が多く、決して豊ではない後進国なのだ。その問題を解決する人材もいない。皆、人としての志が低く、目先にある自分の事しか考える事が出来ていない。

 今、現実に年金生活に入る多くの人は、この国の、過去政治家達の煽りをまともに受けさせられる。人が生きている限り受け取る最終的な結末である老齢老後年金制度現状を考えただけで、我が国は、いまだ、すべての考え方において、貧しく乏しい国。水準は低く、先進ではない。年金受給に於ける国内経済生活を現実に受け、考えると「これが年金なのか」と、痛い程それを感じてしまう。国家は、今の若い世代を悪夢のように激励する。「自分でお金を貯めておきなさい。私達は一切何もしません」残念ながらこの施策が現実。
 
 今、自分達の仕事や利益がどうなるのか、だけしか考える事の出来ない目先議員が存在する国情の未来は悪夢だ。そしてその煽りを受けるのが毎回被害者である貧しい国民達である。それが自然の摂理であって「弱肉強食」だと言い切る人がいるとすれば、その人は人としての思考が停止している単なる未成熟な悪ガキであって「弱い者虐め」が何かについても気づいていない。そんな人達が、今後も船の行く先を決めていくわけだから、国民達が安心し喜べる地点に辿り着く可能性は皆無であり、安心どころか、繰り返し「難破し放題」になる事を、乗船している者は覚悟しておかなければならない。

 舵取りを任せられている者達が機能していない国は、成り行きで自分の世代だけを乗り切ろうとし、力が必要な、操作すべき舵輪に手をかけるどころか、それに見向きもしない。皆、素知らぬ顔をして、自席確保の為だけを真摯に取り組み、成り行きで保身最優先の茶番議論を血税で行い、時間を潰すだけ。

 今後、いくら上手いと思える年金施策を打ち出したとしても、所詮、弱者に対する言い訳であって、実質、弱者が救済される事は無い。
 近い将来、今の若い人達が受け取るべき年金に、喜びと安心の声が聞こえる事は無いだろう。反対に「弱者は無知だから仕方ない」と言う声が、船員からは決して手の届かない、豪勢な船長室から聞こえてきそうだ。

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