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恋、わずらう #4 逃げろ

前回までのお話…

石川という女性スタッフの鋭い視線。セミナーで偶然出会った中国人女性コウと僕との関係が悪目立ちしてしまったのか…それとも、女性特有の鋭い”勘”によるものだろうか。
一抹の不安を抱えながら、僕はとにかく感づかれないよう細心の注意を払いつつ、背中に降り注ぐ視線をなるべく気にしないよう心掛けていたけれど…

◇◇◇

―― 19時半…
二日目の最終セミナーだけあって内容は佳境を迎えている。
この自己啓発セミナーも明日を残すのみだ。熱く語る講師。その熱血トークに感化された受講者たちの集団はどんどんと熱気を帯びてきていた。それはもう室内の空調を脅かすほどに。

女性スタッフに僕らは目を付けられている…
そう感じていた僕は、こっそりと持ち込んだ紙切れとボールペンを使って、なるべく顔を正面に向けたまま彼女との空間をなんとか保とうとしていた。

紙切れに「暑いね」とだけ書いて、チラッと見せる。
すると、ちょっとだけ顔を傾け横目でクリっと見つめてくる…そして
「ネッ」と、薄桃色の唇がぷるん。



そんなことをよそに、ますますセミナーは白熱してゆく…

僕は無意識のうちにペットボトルを取り出すと、少しだけ口に含んでいた。
セミナーが1回3時間と言う長丁場なので、ペットボトルで水分を補給することはOKになっていた。それはセミナーが始まる最初、ちゃんとスタッフから説明を受けていた。ただ、あまり飲むとトイレに行きたくなるので、もうほんの少しだけ…

すると、手の甲でコンコン。
んっ…
と、横目で見ると、彼女は顔を正面に向けたままクリっとした横目で僕を見つめ、声を出さずに唇を動かし「チョーダイ…」と、言っている。
彼女の手のひらを見ると、さっきもらったキャンディーの包み紙をチラつかせ、”さっきあげたでしょ”…みたいな、ちょっと企んだような悪戯っぽい顔で 、「は や く」と、小首を傾げ、口角を上げる。

正直ドキドキする。いや、こんなのよくあることだよ…と心を落ち着かせる。
そっとペットボトルを手渡すと、わざと同じ角度にペットボトルを構え、横目でチラチラと僕の様子を伺いながら、少しだけぬるくなった水を共有した。
こんなの普通よ…みたいに振る舞うその横顔にドキッとする。
少しだけリップがついたそのボトルを拭うこともせず突き返すと、そのままわざと、きっとわざと熱弁を奮う講師のほうだけを向いて「ありがと…」と、彼女は小さく唇を揺らしていた。




―― 講師のボルテージは最高潮に。

「この中でまだ挙手してない人はいますか ――それはまだあなた自身がこのセミナーの本当を体験してないってことですよ」

「ここはテニスコートです。あなたはコートで試合をしていますか ――それとも観客席で批評しているだけですか」

「観客席にいるならばコートに降りて試合をしてみて下さい。景色が違う、見える世界が違うのです ――あのコースに決めたらよかったのに…じゃないんです。あのコースへ決めるために、その一点だけに集中するのです ――」


――熱弁を奮う講師…
ただ、僕らは観客席の端っこで違う話をしていた。いや、違うコートで別の試合をしていたのかもしれない。セミナーの内容は<家族に心を開く>というテーマについてだった。

彼女は、自分の年から少し離れた弟についてボソッと打ち明けてくれた。

―― 弟、イジメたのあるの…きっと弟は覚えてないけど、わたしね、そのとき、わざとだったの…

それは彼女が抱えていて誰にも打ち明けたことのない本当の悩みだった。
後でね…と、小声で、でもしっかりと彼女に聞こえるように呟く。頷く彼女。講師に目を付けられないよう、僕らはひっそりとそのまま景色に同化してゆく。
そして、そのときの「うん」は、それは、どちらからともなく一緒に帰るという約束になっていた。



―― スタッフが声を張る…

「それでは今日のセミナーはここまでです。次回のセミナーに応募される方は後ろの席で所定の用紙にご記入ください。よろしくお願いします」

なんと最終セミナーを終える前に、次回のセミナーへ応募を決めさせる仕組みなのだ。セミナー自体はなかなか面白い話なのに、この腑に落ちない感覚はなんだろう…

僕も彼女も次回セミナーに応募する気持ちなどサラサラなかった。
僕は前に立って、応募する人たちの列をグイグイと押し分けて出口へと向かう…すると、なんとなく雰囲気を察していた石川さんが目聡く彼女を発見して、遠くから大きな声で話しかけてきた。

「コウさん、次も来るわよねぇ…ねっ!この用紙書こう」

と、彼女を僕から引き離そうと近づいてきたのだ。
僕はとっさに、

「彼女、家族にいま電話するみたいなんですよ、さっきのセミナーで家族に電話するって宿題があったじゃないですか…早く電話しないと、家の人…寝ちゃうらしいので…」

「ねっコウさん、早く電話したほうがいいよ」

と、グイっと彼女の手を握り、ごった返す人の波をかき分け、

「あっ、ちょっと…コウさん…」

と、呼び止めようとする石川さんが、人の波に押されてなかなか動けない状態の、その一瞬の隙に僕らは走り出していた。

エレベーターを使わず、わざと防火扉を開けて階段を駆ける…
5Fから1Fまで、走る、走る…
手を繋いだまま、ふたりで一気に1Fまで駆けおりると、のろのろ開いた自動扉の前から"せえのっ せっ"で、ピョンとジャンプして外へ飛び出した。息を切らせながらお互い顔を見合わせると、どちらからともなく笑いが込み上げてきて、その場で僕らは大笑いした。

高層ビルの隙間から見える空には月が煌々と光っていて、そんな月を見上げながら、心の中にはRADWIMPSの「前前前世」のイントロが始まっていた。

追手なんてもちろんあるわけないけれど、少しだけ用心して、そうして少し落ち着きを取り戻した僕らは、ゆっくりと駅に向かって歩きだした。

手を繋いでいたことが急に恥ずかしくなる…無造作にスマホを取り出して、意味もなく時間を確認する。
都庁からのビル風がふたりに吹きつける。

「寒っ」

と、肩をすくめた。気が付くと彼女は身体をちょこっと寄せていて、左手を僕の右腕に少しだけ滑りこませ、恥ずかしそうに袖口の内側を掴んでいた。

―― 駅までは、わずか10分ほどで着いてしまう。

僕は、スマホで自分が働くBARのホームページを表示させ、

「こんなお店やってるんだ」

と、見せてあげた。目をまるくした彼女は、

「エ―― 格好いいね わたし、行きたい」

と、ハイテンションに。

「いつでも来なよ」

と、これはもう本当に僕のお店を見てもらいたいという一心で。

そして歩きながら、さっきの弟の話に戻った。

―― 弟とは12歳も離れていて、その弟はいま、重い病気を患っていて、実家のある中国で入院生活を送っているという。そして、弟は覚えてないだろうけど、まだ小さかった頃八つ当たりして弟を叩いて泣かせたことがあって…

気がつくと、彼女は伏せ目がちに足元の冷たいアスファルトへ話しかけていた。
僕は、

「弟さんに、いまの話、してみたら…正直に」

と、言ってみる。
彼女は

「今更言えない…わたし、泣いちゃう」

と、笑顔を作り、ちょっと戯けたフリをして、でもそんな彼女の真剣な眼差しは、このことが占める心の重さをよく表していた。

「難しいね」

とだけ呟き、僕は彼女の手を挟むようにして、右手をポケットに突っ込んだ。

本当は彼女を抱きしめてあげたくて、でも彼女を抱きしめるなんてとても出来なくて、それは思いつく精一杯の悪あがきだった。

誰かのヒットソングじゃないけれど、その瞬間彼女をそっとポケットにお招きしたい気持ちと、抱きしめたいと、でもどこかに理性のカケラがあったのかもしれない。

彼女の手はもう完全に僕の右腕をしっかりと巻き込んでいて、それはもうどこからみても恋人同士のそれにしか見えないはずで、そのくせ僕らはお互いの気持ちを声に出すことは絶対にしなかった。
その境界線から飛びだすことは、ふたりの覚悟であり終わりの始まりとわかっていたから…

青い月が僕らふたりを照らしている。

叶わぬ恋と知っていても、セミナーという異空間にいた僕らふたりは完全に別世界にいた。

駅までのほんのわずかな時間…僕らは歩行者信号がまだ点滅し始めたばかりなのに立ち止まったり、それから押し合ったりしてわざと蛇行してみたり、ふわっと舞った彼女の髪の匂いが僕をくすぐり、そして、そんな風にふざけ合いながら、僕はなるべく終わりのことを考えないようにしていた。
明日が終われば、また日常に戻ってしまう。
彼女と、また会うことが出来るのだろうか…


駅に着く。

彼女とは改札口の前まで。

彼女は僕から手を離すと改札を背に僕の正面に回り、少しだけおでこを僕の胸にくっつけた。

ほんのちょっとだけ時間が止まる。

「はいっ」

と、彼女。
すっかり笑顔になった彼女は、

「弟に、弟に言てみるね…」

と、僕のお腹にグーパンチをした。

「うん」

と、僕。


ほんの一瞬の間を置き、さっと背を向けて改札を抜けた彼女は、くるっとこちらへ向き直し、手のひらをピッとおでこに当てて敬礼のポーズ。
そして、

「ありがと」

と、唇を動かすと、そのままこっちを向きながらゆっくりと後ずさり、胸の前で小さく手のひらだけ動かしてバイバイをした。


後ろ姿が見えては消え、見えては消え、彼女の姿が新宿駅の人混みに飲まれて見えなくなってからも、僕はしばらくの間、立ちすくんでいた。


空を見上げる。
さっきまで見えていた月に少しだけ雲がかかりはじめていた。
僕は胸の温かい余韻を少しでも長く感じようと、上着のボタンを上まで閉めてポケットに手を突っ込んだ。


(続


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