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なぜ『見て盗め』や『なんとなく』は合理的なのか。言葉の限界。百聞は一見に如かず。

まとめると、現代人もYoutubeで見て盗んでるよね?という話です。

 ネットなどを見ていると、『見て盗め』というような教育法はよく批判されています。確かにそうした方法は現代的ではないし、非合理的かもしれません。特に教育という観点からすると良くないことです。
 日本人は欧米人などに比べると、知識の言語化や体系化が確かに苦手なようです。欧米の人達は、明らかに知識を体系化する能力が高く、難しいことを分かりやすく説明する能力に長けています。

 そこに関しては、素直に認めて改善していくべきでしょう。でも、こうした『見て盗め』という方法論は必ずしも非合理的なものでしょうか。

 何かのやり方を学ぶ上で、多くの人がYoutubeでそれを実践している動画を見て調べたりしますよね?これは『見て盗んで』いるのでは?

それなりの理由

・参入障壁である
・ノウハウの保全
・マーケティング、ブランディングである

 細かくは省きますが、こんな風に考えられます。教育面以外の目的にはなってしまいますが、『見て盗め』にも一応それなりの理由はあるということです。昨今はいろいろなモノをオープンにした方が長期的に得をする、という考えで本をネットで全文公開してしまおう!という方法論があったりします。それはネット社会を前提にした現代ならではのやり方だと思いますし、昔はなかなか難しいでしょう。

 というわけで、確かに古い考えではあるから改める必要はあるけど、それなりに合理的だったのではないか、とします。

言葉の限界

 で、次の主張はもっとも大事で、言葉には限界があるということです。図やイラストがあると、長文でも読む気になったりしますよね?それは視覚的な情報で内容の理解を助けてくれるからです。ほら見て覚えてる!
 文章とは言葉の羅列ですが、言葉は文字の連なりであり、文字はそれだけでは記号の一種です。これらの組み合わせを読んで、脳内で咀嚼して理解して初めて内容が伝わる媒体です。

 しかし、文章というものの性質は二次元的です。書き表せられるモノには限界があります。一度に複数のことを起きる事象を時系列に沿って書き表すことは出来ません。やるにしても断片的にしか出来ません。そして、一千文字読むよりも、ひとつの写真を見た方が明快な事は多いです。
 つまり、言語化の努力を怠ってもダメだけど、言葉の能力を過信するのはいかがなものかということです。言葉は人間の偉大な発明ですが、万能ではないでしょう。

理論と実践

 動かすことのできない科学的な法則は別として、理論とは実践の結果や、それによって得た知恵を統計的に体系化したものに過ぎないはずです。

 特に音楽などでは、様々な名曲に共通する点を統計的に割り出して、一般化したものに過ぎないのです。ベートヴェンなどののクラシック音楽家は当時の音楽教育を受けていますが、名曲の多くを理屈で作ったとは思えません。もちろん西洋音楽においては理論的裏づけが重視されますが、この場合、理論は感性や『なんとなく』を補強する位置づけだと考えられます。

 音楽に限らず、そうした法則や規則をまとめることは大事ですが、あくまでそれらは実践の結果ですし、実際にやること、起こった事ののひとつの側面でしかないということには、注意しないといけないと思います。

 そもそも、実践において、いちいち理論を思い浮かべている人はいるのでしょうか?多くの人は『なんとなく』実践しています。それは人間の脳の構造上、複雑なことを考えながら出来ないからです。いちいち日本語の文法を考えながら喋る人が、いますか?皆、なんとなく喋っています。
 人間は練習を積み重ね、高度なことを『なんとなく』できるようにします。喋ることですら、いちいち考えたら間に合わないからです。

『なんとなく』は言語化されていない理屈

 なんとなく、はとも言えます。勘は非科学的なものでしょうか。昨今の機械学習を見ると、そうとも思いません。むしろ、機械学習は人間の勘のようなものを人間を超える形で機械に身に付けさせる技術のように思います。(違ってたらごめんなさい)
 人間はもちろん間違いを犯しますし、勘が外れることは多々あります。間違った思い込みが大失敗を引き起こすこともあります。しかし、それは不完全ながらも、人間に備わった立派な能力なはずです。

 だから『なんとなく』は非合理ではありません。複雑な行為ほど、言語化は困難になります。出来たら、それに越したことはないかもしれませんし、その努力はすべきでしょう。
 しかし、言語化されたものが全て!理論こそ至上!となってしまうのは、本末転倒です。実際にやってみること、そして出来ることが重要です。そうした実践をなんとか断片的に言葉で言い表したのが、理論であったり、評論のはずです。

 何でもかんでも見て盗め、で済まそうとするのは、教育の怠慢だけども、言葉のチカラを過信するのも、人間の実行能力を見誤っている、というのが自分の考えです。


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