あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(3)知識人の民衆蔑視

あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について、これで最後となります。いきなりですが、ドストエフスキーの言葉を引用させていただきます。
「「困苦、貧困、苦悩のゆえに民衆を愛すること、言い換えれば憐れみをかけることは、どんな貴族の旦那にもできることで、それがヨーロッパ的教養を身に着けた人情みのある旦那ならばなおさらのことである。しかしながら民衆にとって必要なのは、苦しんでいるということだけで愛してもらうことではなくて、民衆それ自体をも愛してくれることである。」
「民衆それ自体を愛するとはどういう意味であろうか?『おれが愛しているものを、お前も愛してくれ、おれが尊敬しているものを、お前も尊敬するようにしてくれ』これがその意味であり、これが民衆の答え方である。」
ドストエフスキーが生きた19世紀ロシアでは、いわゆる「先進的」「民主主義的」「進歩的」知識人が、貧しく無知な農民に深く同情し、彼らのための社会改革を主張し、また、民衆を啓蒙しようとしました。
ドストエフスキーは、現実の貧困対策や、特にアルコール中毒の防止、寡婦や孤児の保護などの具体的問題については積極的にその必要性を訴えましたが、知識人が「遅れた民衆に自由民主主義の進んだ思想を教えよう」「彼らの迷信や古い考えを改めさせよう」とする啓蒙活動には断固反対しました。
それは結局のところ、民衆を上から目線で見下し、自分たちの信じる思想に従わせようという姿勢で、最後には必ず、民衆一人一人を精神的に改造し、従わない民衆を否定する、今のロシア帝政よりはるかに悪い独裁につながるのだ、と訴えたのでした。
そして、当時の多数の民衆が愛し、尊敬しているもの、それは具体的に言えば、ロシア正教とロシア皇帝です。当時の知識人の多くが、一番、ある意味馬鹿にし、一方は遅れた迷妄、一方は独裁と抑圧の対象として批判していたものなんです。
しかしドストエフスキーは、民衆が信じ、自分たちの救いを求めているロシア正教と、国の父親であり、また信仰の対象でもある皇帝を馬鹿にするような姿勢を取っている限り、知識人は決してロシアという国も民衆も理解できない、と言い続けました。民衆が信じているもの、大切にしているものを知識人が安易に否定したら、決して民衆の心に届く言葉や思想は生まれてこない。ロシアには根付かないヨーロッパの思想を押し付けるだけになる。そうドストエフスキーは説いたのでした。
ドストエフスキーのような偉大な人を自説の補強に使うのはあまりに申し訳ないかもしれませんが、この視点は現在でもとても大事だと思います。正直、東浩紀氏にしても津田氏にしても、ここでのドストエフスキーの言葉がそのまま当てはまるような気がするんですよ。
東氏や津田氏が皇室に対し、どんな考えを持とうと自由です。そして、皇室を批判する言論の自由もあるでしょう。しかし、それは誤解を恐れずいえば「皇室を敬愛している民衆」を批判し否定することですから、民衆レベルでの反発は当然起きることは覚悟しなければならないでしょう。脅迫は勿論犯罪ですよ。しかし、抗議は、甘んじて受ける必要がありましょう。
さらに言えば、このような展示会をすることを、多くの知識人はよく「時代への問題提起だ」という言葉で肯定します。でもその言葉の背後にあるのは「無知な大衆はこういうショックを与えねば何もわからんのだし考えもしないのだ」という民衆蔑視の発想が潜んでいないでしょうか。
民衆が愛し、信じているものへの敬意を払わない知識人の傲慢さは、今回の展示のように、ただテーマとして反体制的なもの、反皇室的なものを持っていれば作品として価値がある、という発想に繋がるのです。それって、「共産主義的な芸術は正しい、ブルジョア的芸術は悪」という、20世紀の遺物である馬鹿げた共産主義芸術論と本質的には変わりません。
今、津田氏や東氏はご自分を被害者とお考えかもしれませんが、皆さんのような発想が政治権力を取った時、どれほどの虐殺が行われたかは、私が言わずともソルジェニーツイン論を書かれた東氏にはおわかりでしょう。
長々と三回にわたって書いてきましたが、最後にもう一度、ドストエフスキーの言葉を。
「ほかの国では民主主義者は自国の民衆に根差しているのに、わがロシアでは、民主主義者は自国の民衆を馬鹿にしている」(この引用はちょっと私がいじりましたが、意味は変えていないつもりです。)


#あいちトリエンナーレ2019 #表現の不自由展・その後

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