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「服食品(ふくしょくひん)」 シリーズをはじめます。

 「衣・食・住」とはよくも言ったもので、どうやらそれらは生きる上でもっとも大切にすべき3つのエレメントなのだそう。衣(い)。食(しょく)。住(じゅう)。

 1・2.5・3の淡麗な語呂もあって、しばしば熱心すぎるほどに、それらのうちひとつが語られる様をみてきた。そのひとつを取り上げて、沸騰する湯の中で過激なまでに茹で上げるような、とんでもないラディカリズムに出会ってしまう機会がみられた。タワマン論争って本当なんなんですかね。東京以外の地域を十把一絡げに「地方」と呼ぶの、ちょっと失礼だよ。グルタミン酸ナトリウム(うま味調味料)を「人体にとっての毒!」として語るの、もうやめにしようぜ。

 衣、食、住。このうちひとつを、個人的志向に沿ってすくい上げるとしたら、きっとそれは「衣(い)」になるのだと思う。僕は衣服が好きだ。いわゆる “服装行為” が、とても好きだ。できれば常に服のことだけを考えていたい。食うことも住むことも忘れて、ひと思いに被服行為のことだけを考えていられたらどんなに素敵なことか、といつも思っている。

 それでも、飯を食い、家に住み続けている。腹が減れば、何かしらを腹に入れる。ほとんど興味は無くとも。ほとんどベランダにて煙草を吸うぐらいだが、家賃も立派に払えている。正味、家などは、どこだっていいのだけれど。

 寝起きの頭にひとつのアイディアが浮かんだ。「服のことを食品みたいなメタファーでもって書き連ねたら、きっと楽しいんじゃないか?」と。

 表現の爆発には、その豊かな超越には、いつもいつも驚天的クロスオーバーが不可欠である。象(エレファント)の大きさを表すにおいて「キリンぐらいデカい!」とはあまり言わない。「高層ビルぐらいデカい!」の方が、きっと効果的であると思う。「象のケツ、おれの母ちゃんの尻よりデカい!」は、面白いと思う。若干ズレるけど。

 何につけてもやはり、あるひとつの社会で通用している(と思われる)説を、まったく別の社会の形容にエイヤッと代入することこそが、肝なのだ。それが驚天的クロスオーバーである。下記のエッセイを読んでもらえたら、それが実に表すところを理解してもらえるはず。


 前置きが長くなった。都合良く「服食品(ふくしょくひん)」などと銘打って、このシリーズをはじめる。これはもちろん「服飾品」のもじりである。ここまで丁寧に説明する必要は無いか。

 「椎茸出汁みたいな服」と書いた。このシリーズはきっと、ボケの説明みたいになっていくんだろうな。

 「椎茸出汁みたいな服」とは何か。それは、やさしくおだやかな見た目ではあれ、味(衣服、特に古着における “アジ” というのもある)がしっかりと存在している、という意味である。一見、ただただ柔和な色味のニットであるが、肩には「フリーダムスリーブ」の意匠が取り入れられていたり、首元には「Vガゼット」と呼ばれるディテール(およそ1940〜1960年代のスウェットに取り入れられたもの)が採用されていたりする。味とはつまり、個性である。


 続くかわからない(なるべく続けたい)このシリーズの題は、「服食品(ふくしょくひん)」とした。服と食は似ているのだ。とてもよく似ている。服装を選ぶこと、それをそれを身にまとうこと、そのプレゼンテーションは、料理行為そのものじゃないか。

 ステーキ肉に付け合わせる色とりどりの野菜。あれなんか、まさしく「差し色」じゃないか。豚汁の中に入っているニンジンなんかも、鳥の煮込みに入っているインゲンなんかも、いっそ全部「差し色」としてしまえるじゃないか。

 はたまた、カレーの中にコーヒーを入れる、つまるところの「隠し味」なんかも、服装行為とまったく同じじゃないか。アウターに隠れて見えないインナーのTシャツと同義だ。それが見えたっていい。見えなくたって、ひとつのこだわりである。僕はこれから、ちょっとすごいことをやってみようとしている。

 服を買うたびに、何でも書ける。何でも噛んでも(誤字はわざとです、説明するの恥ずかしいな)書いてみようと思う。食のレトリックらしきものを用いて。服を買い続け、懐はどんどん寂しくなるばかりだが、たんと味わうその時の、満ち足りる腹の模様を愉快に書き続けていけたらいい。お楽しみにどうぞ。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。