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『偶成』 エレファントカシマシ

 3月31日に『3月末をもってエレファントカシマシ、宮本浩次は所属事務所アミューズとの契約満了』と発表があった。あまりにも直近すぎる発表に、色々と大人の事情があったのでは?と邪推してしまう。

 何がなんでも売れたい人と、何がなんでも売りたい人達の世界は私には計り知れない。カバーアルバムがヒットして、コンサートチケットも完売となる宮本浩次を事務所は手離したくはなかっただろう。どちらにしても、事務所を離れるのが片方だけにならなくて良かったのと、今後はメディアへの露出は減るだろう、と思った。そして、これからの活動が益々楽しみになった。

 宮本浩次がソロを始めたばかりの頃「ソロで売れたい!」と公言していたけれど、「コアなこともやってみたい。」と話していたのも覚えている。私はこの時『もしかして、エレカシ初期の頃のような「なんじゃ、こりゃあっ!?」と言ってしまうような歌を聴くことが出来るかもしれない!?』と密かに楽しみにしていた。ただし、大手事務所では難しいだろう…とも思っていたので、今回のことで自由に活動が出来るのでは?と期待している。

 エレカシ初期の頃の歌は、辛い、悲しい、苦しい、虚しい、などの言葉では収まりきれない不穏さを持っているのが印象的で、伝えたいこと、伝わることのギリギリを攻めているような、境界線上のような歌が心に響いた。伝われば純粋と言われ、伝わらなければ狂気と言われる。でも、人の本当の気持ちなど分かるはずも無く、理解できるのはほんの表層部分だと思う。誰でも心のうちには、明かしたら周囲の人にドン引きされるようなものを1つ2つは抱えているはず。そんな日常生活では敬遠され居場所のない気持ちが、エレカシの歌の中にはメロディーや歌詞だけでなく、音や声も含めて存在している。

 50代になって『偶成』という歌を改めて良い歌だな…と思う。自分がこの歳になったからこそ、これだけ成熟した歌を宮本浩次が20代前半で作ったことが信じられない。まさに人生1周目とは思えない…。

ああ俺には何か足りないと
何が足りぬやらこの俺には
弱き人のその肩に
やさしき言葉もかけられず
人を思ううちが花よと
わずかに己れをなぐさめた

偶成 エレファントカシマシ

 近ごろは、この歌詞が胸に刺さる。50年ほどの自分の人生を振り返って思うことは、家族のことで手一杯、精一杯で、人生で関わってきた、助けをを必要としていた人達の役に立つことが出来なかった気がする。家族のためにっ!と頑張ってきたのも、所詮、わたくしごとに過ぎないのかもしれない。そんな惨めな気持ちを、この歌が人を思ううちが花よとなぐさめてもくれ、この一節だけでも、ここまで思いが巡る20代の宮本浩次はやっぱり尋常ではない。

ああうち仰ぐ空のかなたに
きらりと光る夕陽あり
流るるドブの表を
きらりとさせたる夕陽あり
俺はこのために生きていた
ドブの夕陽を見るために
ドブの夕陽を見るために

偶成 エレファントカシマシ

 宮本浩次は『ドブの夕陽を見るために生きていた』と言っているけれど、私はエレカシを聞くため、宮本浩次の声を聞くための人生だった気がする。心の底から堪能することが出来るのは、この人生だったからだと思う。あんなことや、こんなこともリアルに歌を受け止めるためだと思うと全て腑に落ちる。そう思うと、なんて贅沢な人生だったのだろう。そして、安心して成仏出来る気がしている(笑)。

 また、先日の岸見一郎先生のnote記事で目を引いた言葉があった。

 池田晶子が藤澤令夫の追悼文の中で、「学問と人格とが、その覚悟において完全に合致した氏の姿は、本当に美しかった」(「哲学者 藤澤令夫さんを悼む 善く生きる」覚悟の美しさ」)と書いている。私も学問と人格が一致する哲学者でありたいといつも思う。

note記事 美しい人

 宮本浩次じゃない?と思った。それに、岸見先生の「私も学問と人格が一致する哲学者でありたいといつも思う。」との、なりたいではなく、ありたいという心持ちが素敵だと思った。

「歌と人格とが、その覚悟において完全に合致した宮本浩次の姿は本当に美しい。」

借りてきた言葉だけれど、新たな門出に際してこの言葉を送りたい。

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