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20代を振り返ってみた

お久しぶりです!ミヤケです。
今日で20代最後になりました。
「30歳になったら変わってくよ〜」
「20代と30代は違うね〜」
などと、諸先輩方から100万回伺ってきましたが、本当にそうか?と。
でも、まあ、そんなに言われると、そんな気にもなってくるというか、ある種の洗脳に近いような感覚にもなるもんで。
せっかくの機会なので、振り返ってみようと思います。

田舎者が背伸びしてみたら光が見えた

20代の始まりは、大学生活の後半に突入する、大学2年の終わりでした。
僕にとって、大学1年と2年は、人生唯一と言っていいほどの黒歴史とも言うべき時期でした。
岡山県の田舎にある公立高校から、今や関西でも有数の住みやすい街である西宮に引っ越しての下宿生活。
奨学金を受けていましたが、安くない学費の大半や下宿代は実家の両親が負担をしてくれていました。
僕の進学に関わるお金を4年間の授業数で割ると・・・◯千円!と衝撃を覚えました。
今でこそ、両親への態度は多少軟化したとはいえ、18年間随分と甘やかして頂いたおかげで、日頃両親への感謝は愚か、優しい言葉の一つも滅多に掛けることはありませんでした。
そんな僕でも、流石に大学の費用を知り、「こりゃ、頑張らないと・・」と誓ったことは昨日のことのように覚えています。

大学生活が始まってからは、真面目に授業に行くだけでなく、毎日の復習や、余裕を見つけては予習をし、授業に備えました。
5月6月ごろになると、サークルに入っている同級生たちは、先輩にもらったであろう過去問を、まるで神の偶像でも崇めるかのように天高く上げ、共有しあっていました。

「こいつら、真面目に授業も出ないで、何やってんだ。何を学んでんだ。両親に感謝しているのか。」
当時の僕はそんな思いを持ち、同級生たちを軽蔑していました。
真面目に授業に出席し、専門的な勉強に勤しみ、自分の持てる知識と胆力でのみ勝負(試験)をすべきだ、そう思っていました。

そんな僕ですから、大学では友人があまり多くなく、サークルにも入らず、鬱々とした毎日を過ごしていました。
気づけば、バイトもろくにせず、両親の振り込んでくれた教科書代を頼りに生活をし、授業で知り合った同級生を連れ立って、自堕落な学生特有の享楽に耽っていました。

あっという間に時間は経ち、中途半端な専門知識と登録件数の少ない携帯電話だけが手元に残りました。

大学3年生。もう青春も終盤戦、僕は何をやってるんだろう。
自暴自棄にもなっていました。
冬に就活解禁を控え、このまま真面目で居られれば、どこかの企業に拾ってもらえるだろう。
いつしか友人と学食で潰す時間も増え、”ダサい”という言葉がまさにピッタリな大学生が完成していました。

「ねえねえ!キミたち何回生?就活とかインターンとかもうしてるん??」

学食で友人と2人で座っていたところに、”キラキラ”を絵に描いたような女性が話しかけてきました。

”いや、まだ何も。”

「そうなんや!もし予定空いてたら、明日の夜梅田でイベントあるんやけどどう?学生は1,000円で食べ飲み放題!%&%$の代表とか、$%&$の営業やってはるウチのOBとかも来るから、かなりお得だと思うで!」

何やらイベントの勧誘でした。
今思えば、この女性も集客に必死で、そこにたまたま”話しかけやすそうな”男の子がいたもんだから、いける!とでも思われたんでしょう。

呆気に取られながらも、友人と顔を見合わせ。
”どうする?お前暇なん?”
”うん、まあ空いてる。”

”あの、僕たち一応明日なr・・・”

「よっし決まり!LINE交換しよ!グループに招待するね!」
その女性は、僕たちの話を最後まで聞く前にスマホを開き、僕たちはまんまと勧誘されたのでした。

まあ、1,000円ならいいか。
お金もないし、食べ飲み放題なら。

しかし、それが僕の人生を大きく変えるのでした。

会場に着くと、100人以上の学生や社会人がにぎやかに酒を交わし、ワイワイとやっていました。

”うわ・・苦手だなあ・・こういうの”

いそいそと友人と2人で案内された座敷に座ると、
頬を赤くした男性が話しかけてくる。

「キミたち今何してんの?」

”何・・・って言われても、大学生です。普通に。”

「違う違う!団体とか、なんかやってんの?」

だ、団体・・・?
NPOのことか?
なんのこと言ってんの?

聞けば、僕たちの他に座っている面々は全員大学生の傍ら、学生団体の代表をやっていたり、起業して営業会社をやっていたり、飲食店の共同経営者をやっていたり・・・

完全に場違いでした。。

やべーとこに来たんだ。さっさと帰ろ。

しばらく黙りこくり、目の前のご飯と口いっぱいに入れ、ビールを一気に飲んだ。

「めっちゃ飲むやん笑」

そう言って話しかけてきた男は、僕と同い年で、学生団体の代表をやっているらしい。
今度、学生だけの運動会をやるからメンバーになって!と言われるがまま、数名で二軒に行くことになった。

何を話したのかは、あまり覚えていない。
でも、僕にとっては、刺激的な数時間で、次の日から活動が始まりました。

今まで見たことのない学生ばかりで、最初の頃は戸惑いばかりでした。

でもそのうちに、今まで自分の中に隠していた、志なのか、野心なのか、夢なのかが、輝きを取り戻したような感覚になった。

それからの僕は、人が変わったように、
深夜バイトを繰り返し、インターンに行き、勉強会を先輩と一緒に作り、とにかく活動的に動いた。
酒が残ったまま試験に挑んだことはもう時効だろう。

まさに、今まで自分が嫌ってきた大学生のような生活をするようになっていました。
難易度の高い試験は、友人の先輩からもらったり、出欠不問の授業は平気で休みました。
両親への後ろめたさはあったものの、僕は目の前にある楽しさを優先し続けました。

楽しい、でも少しだけ申し訳ない。
そんな思いを落ち着かせてくれたのは、僕の尊敬するゼミの先生でした。

「大学生ってさ、先輩に過去問もらって、器用にやり過ごしていくじゃない?あれを汚い!って捉えることもできるけど、社会に出たらそれが活きるのよ。自分は真っ当にやっている!っていくら主張しても、結果・実績が出ないと、ご飯食べれないからね。」
結果至上主義ではなく、さまざまなキャリアや挫折、結婚出産からアカデミックの世界に飛び込んだ先生だからこその説得力がありました。

これまでの僕は、過程や自分の正しさばかりに目をやり、これから社会に出て、どう生きたいのか、その生きる世界の形はどうなっているのか、その一切を考えていませんでした。
正しいことをしていれば、きっと評価される。

なんですかね、なんか田舎の公立高校の男の子が考えそうなことですよね。

新しい体験と、本来の自分に気づき、
”社会”を生きようと思えた20代のスタートでした。
その後の僕は、就活中盤で一気に路線変更し、行きたくないと思っていた東京に籍を置く、現職の会社へと就職することとなりました。

社会人・大人の楽しさを知った

2015年、22歳の僕は晴れて一番好きな会社に入り、自分の夢を叶えていくことになります。

前例のない介護事業部への配属、新規事業の兼任。
僕の社会人生活は、僕にとってはこの上ないスタートになりました。

まあ、今となっては良い学びだったなとは思いますが、随分とわがまま放題に若手時代を過ごさせて頂きました。
俺がこの事業を成長させてやる!この業界を変えてみせる!と言わんばかりの時折傲慢にも見える働きぶりにも関わらず、上司や先輩たちは文句一つ言わず、むしろ「三宅くんがワーってやってくれて助かるよ」と温かく捉えて頂いていました。

入社後すぐにいろんな交流会に顔を出し、自ら勝手に営業をかけ、事業部内のルールや慣習も先輩と一緒に変え、刺激的な毎日を過ごしていました。

社会人になって、ふと気づいたことがあります。
それは、2年目の終わり頃、とあるパートさんと退職にあたり面談をすることになりました。今思えば23歳くらいの若造によく任せてくれたなと感謝しています。
面談の内容は細かく言えませんが、自分の親よりも年上の部下に対して、厳しく、そして今後の本人の人生が幸せになるよう、一緒に考えた時間でした。
2時間の面談を終え、ヘトヘトになりエレベーターホールにいると、1人の先輩が声を掛けてくれました。
「三宅、何やってるのー?」
僕は事の次第をつらつらと話しました。
「そうか、それは良い経験だったね!しかもその年次で。色々経験させてもらえてありがたいね〜」

僕はその瞬間にこう思いました。

仕事って楽しい!社会人って楽しい!大人って楽しい!

今までやらなかったことばかりで、
自分のやりたいことばかりで、
自分の思いで、どうにでもできる、多少上手くいかないこともあるけど、
それも含めて、毎日がとても楽しく感じました。

僕が嫌いな質問の一つに、こんなものがあります。

「戻れるとしたら、いつに戻りたい?」

僕は、いつにも戻りたくありません。
今が一番楽しいし、明日もっと楽しくなりそうな予感がするからです。

大人は、自分で作れる、与えられることもあるけど、それ以上に、自分と仲間でなんでもできる。
好きなおもちゃで遊んでいたあの頃よりも、何倍も面白いものがたくさんあります。

子どもの頃から夢見た介護の仕事で、毎日楽しく過ごせて、僕は幸せです。

自分で今と未来を作る

20代後半になると、僕のもう一つの挑戦が始まりました。

学習支援団体、そしてNPO法人の設立と成長です。
26歳の頃に動き始め、27歳で設立・理事長になり、今では4拠点の教室を運営しています。
2度のクラウドファンディングも経験し、今では80名を超える仲間と一緒に活動しています。

これまでは、自分で事業を引っ張ると言いつつも、会社という大きな傘に守られて働いてきました。
しかし、自分で一から作り、法人登記をし、財政政策も苦心しながら進め、信頼されたり、時に嫌われたりしながらの日常が加わりました。

会社での仕事自体も、そんなに”出来る”方ではないのにも関わらず、NPOの仲間や、会社の仲間に応援され、助けられ、今まで活動をしてこられました。

NPOは、まだまだ大きく成長させます。
地域で地域の子どもを育てる場を、学習を通じて実現させ、自分の手の届く地域だけでなく、日本全国へ、世界へ、広げていきます。

僕がNPOの活動に関して、前だけを向いて走ることができているのも、優秀かつエネルギッシュかつ、優しい仲間がいるからです。
僕の宝です。

NPOの活動を通じて、僕が学んだことは、
「今作る」ことです。

未来を作るってのはよく聞きますが、僕は、今、にこだわっています。
その理由は二つあります。

一つは、子どもたちの未来は、今の関わりによって、今の学びによって作られるからです。
今があるから、今一生懸命だから、未来はきっと素晴らしいんです。

二つ目は、NPOの描く未来、社会の進んでいく未来は、今の僕たちの想いによってでしか作られないということです。
子どもが減り、社会は大きく変動し、大人も子どもも不安な社会を生きなければならないかもしれない。
だからこそ、皆んなが幸せを感じられる社会にするためには、今を未来だと思って作らないといけません。
「〜しないといけない」
僕の嫌いな言葉です。
でも、その言葉を、胸を張って言えるようになったのも、NPOとして、理事長として、社会に責任を取りたいからです。

未来は、今しか作れない。
今作らないなら、未来はきっと作れない。

儚さと尊さはいつまでも続く

僕の20代を語る上で、最も人間成長させてもらったのは、
妻と息子の存在かもしれません。

妻には、本当に多くのことを教えてもらい、成長させてもらい、助けてもらいました。
自分よがりな僕が、部下に対して、仲間に対して、魂からの愛情を注げるようになったのも、妻のおかげです。

そして、その妻は、命をかけて、息子を産んでくれました。
僕は、死んでも、生まれ変わっても、感謝し続けます。

息子の存在は、自分の頑固な死生観すらも変えてしまうものです。
この息子のため、そして、同じように生を受けたすべての子どものため、その子どもを見守るすべての大人、高齢者のため、
僕は、止まらず、ひたすらに社会を、世界を、よりよいものにしなければならない。
したい。

生後まもない息子の姿はありません。
今や、自分の主張を全世界全宇宙に向けて叫んでいます。
全身で自己表現をしています。
彼は、いずれ言葉を覚え、人間関係を覚え、喜びを覚え、憎しみを覚えるでしょう。人を好きになり、嫌いになるでしょう。
かわいそうに。

時間の移ろいとともに、自分も、周囲も変化します。
儚いです。
儚いから、悲しくなるし、寂しくもなります。
だから、尊いです。
実態が、あるけど、なくなるから、尊いです。

39歳の自分へ

最後に、10年後の自分にメッセージを書きます。
ここは短めに。

10年間お疲れ様。
今、幸せ?
今、楽しい?
29歳の頃より、感じられる幸せは増えたかな?
会社の事業は、とんでもなく大きくなって、たくさんの人が幸せに働いていて、
NPOは日本を代表するような立派な団体になって、そろそろ手に負えなくなってきたんじゃない?
あと、他に何やってる?
今仕込んでるようなことは、どれだけ続いてるかな?

そろそろ、自分の身体にも気を遣っていこうね。

どんな状況でも、
どんな環境でも、
苦しくても、辛くても、
みんなの、大切な人たちの幸せのために、生きよう。
それが、俺たちの生存戦略だもんね。

絶対、大切な人全員、
いつかきっと幸せって感じるから。
僕たちだけは、それを信じていよう。

では、10年後に。




シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。