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全部話せる相手より・・・

皆さんは「自分の全てを話せる相手」がどれくらいいますか?
1人?2人?10人?100人?

ちなみに僕はいません。

僕のことを寂しい人間だと思いますか?

僕は自分のことを寂しいと思ったことはありません。
(まあ自分だからね笑)

今回の話は、知り合いの相談に乗っていて感じたことです。
相談内容にも触れつつ書いていきたいと思います。

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悩んで、迷って、自分と向き合って

誰にも言えないことがある。
あの人には言えないことがある。
〇〇さんには言えないことがある。

みんなないですか?

相談者もそうでした。

自分と距離の近い相手には話せない。
大切な人であればあるほど話せない。
”話さなければならない”と思っている。

僕はこの相談者自身の問答は非常に重要な意味を持っていると思いました。

「話す」ことに一定の正しさを持ちながらも、「話したくない」気持ちも同時に大切にし、受け止めようとしている。

僕はそうして悩むこと自体に価値があると思うし、自分と向き合うことにも大きな意味があると思います。

話せる、話せないを自己の中で思考を巡らせ続けているのは、相談者本人が本気でそのことに対して向き合っているからだと思います。

少し話せる相手

全部は話せないけど・・・
少しは話せるかも。

少しの定義は人によって違うと思いますが、相談者だと、一番相談できる人で60パーセントくらいの自分を見せられるそうです。

少ないですか?
多いですか?

僕は十分だと思います。
多いと思います。

逆に言えば、1人の人に100パーセント話すことができれば、その相手はもはや本人そのものです。

大切な人には、60パーセントくらいは話せる。

もしそんな相手が2人いれば120パーセントになります。

1人では生きていけないことの本質

大切な人には、60パーセント話せる。
そんな人が2人いればいいですね。

3人いれば?
5人いれば?
10人いれば?

そうやって僕たちは、自分では抱えきれない自分を、相手の心の少しの容量を間借りして生きています。

それには、間借りしていることに対する捉え方や、間借りさせていることに対する捉え方も大きく関わります。

間借りしていることを良いと捉えるか、悪いと捉えるか。

そのどちらでもないと、僕は思います。

自然の摂理だと思います。

助け合って生きていく。
支え合って生きていく。

その本質は、目に見えるインフラや事物の存在を共有することだけではなく、それぞれの内にある大切で、大きくて、自分一人では乗りこなせないもの、心を互いに持ち合うことなのではないでしょうか?

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<終わり>



シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。