見出し画像

人生何に気づきどう生きるか

毎日生きていく中で、同じことの繰り返しだとしても気づきはあるもので、同じことを繰り返していると自分では思っていても、案外全く違う結果になることもある。

一日生活をすれば、その一日に起こったことが自分の中に積み重なり自分の厚みとなり経験となる。何も起こらない日はない。誰とも出逢わない日はあっても、生きているとずっと寝ていない限り、何かが目に入ってくる。何かが聞こえてくる。感覚は視覚や聴覚よりももっと多くのものを感じている。

現実を直視していた時期は自分の目に見えるもの、耳に聞こえてくるものが全てだと思っていた。感情もそれにリンクし、現実的なことが起こる時に感情が爆発することもしばしばあった。

もちろん、何に感情が引っ張られるのかがわからず困惑することもあったが、その時は目の前にいる「人間」に影響されているのだと思っていた。

人間の悩みの大半は「人間関係」であると知ってからは、相手があることなので自分でコントロールできないなと思っていた。ということはやはり相手をコントロールしたいと思っていたからだろう。
せっかちな私は相手をコントロールするよりも、自分を変えることを選んだ。「過去と他人は変えられない」ということを過去から学んでいたからでもあった。

不思議なことに、自分を変えようと思うとその先の未来が明るく思えてきて感情も穏やかになることを知った。それは未来への「可能性」が心に余裕を与えていたからで決して人間関係が良くなったわけでも救世主が現れたわけでもなかった。ただただ自分の心に少しだけ余裕が生まれると、こんなにも関係性が変わるのだということを身を以て知ることになった。

気づきとは、毎日どこかで起こっているもので先日も数年かけて気がついたことがあり、それを声にしてみた。要するに誰かに聞いてもらいたかっただけなのだが、聞いてもらってからというものその気づきによって話した相手との関係性が格段に変わっていった。

情報の流れが一気に逆流していく感覚に襲われた。

人間は探究心があってこそ行動できるもので、知っていると思った瞬間に学びがなくなり動きが止まると言われ続けていた。もちろん時は一瞬足りとも止まることなく動き続けているので自分が立ち止まった瞬間にそれは「後退」となることはわかっている。立ち止まらないことが後退しないことだった。

でも最近の私は立ち止まらなくても、少し歩みを緩くしている。時間の経過に追い越されると後退しているように感じてしまうので、ギリギリ時の経過と同じか少しだけ早く。そうすると今までは早すぎて見えなかったものが目に入るようになった。これがスローライフというものなのか。自然のものたちの営みが目で鼻で肌でわかるようになる。

自分一人で生きているのではないという感覚になってきて、あんなに足早に駆け抜けていた時間が勿体無く思えてきた。そして「私は知っている」という感覚が蘇ってきた。それは単なる知識としてではなく、DNAに組み込まれている感覚として「知っている」のだということに最近になって気がついた。

現実を直視している時には全く気がつかなかったことに気づいた時、周りにいる人達が変わっていった。情報の流れが一気に変わり、目に見えないものを介して得られるものが現実に見えるものよりも多いことに気がついたのだ。毎日生活しているだけでも十分な情報量である。

そしてさらに、今の状態は私が望んでいたことだということに気がつくのだった。白黒はっきりつけたい人にとってはあまりにも緩く、昔の私でも許せなかったと思うが、これが私にとってのベストなのだ。

たまに今の生活を「優雅で良いね」と揶揄されることもあるが、そんなことは知ったこっちゃない。言った本人もやりたければやれば良い話で、収入も必要な分だけ入れば良いなとユルユル考えていたら現実はどんどんそうなっていった。目の前に起こることは必要なことだから。不要なことは起こらない。だから嫌なことが起きてもそれは必要なことだからと思えば嫌だなんて思えなくなるし。

そんな気づきを毎日感じている。誰にも会わなくても、誰とも会話しなくても気づきは毎日やってくるのだ。

人生とはいとおかし。自立自律で前に進め!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?