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忘れない日々〜本当に忘れてしまうのか

どうやら私は少し心が病んでしまったのかもしれない。覚えてないことを「忘れた」と思い、それは病気だからだということに結論づける。冷静に考えれば違和感があることに気がつくはずだ。

もしかして「覚えていない」は事実として最初から存在しなかったとしたら「忘れた」ことにはならないからだ。だが私は全てにおいて「忘れてしまった」と感知していた。少しだけ違和感があったにもかかわらず強引に真実でないことを作り上げようとしていた。

なぜそうなってしまったのか。それはたくさん張り巡らされた「伏線」にあった。そう始まりはもうわからない頃の母の呪文。そして「言葉」としての私自身の思い込み。

子供が小さかった頃、子供に対する声かけはその子の一生を左右することになるかもしれないと「言葉」に対する大切さを知った。どんな言葉がけをすれば良いか、使ってはいけない言葉など日本語の奥深さと、言葉の持つ力いわゆる「言霊」というものがあることを知ったのだ。

だけど、それが完璧にできていたかというと、決してそうではなく余裕のない生活の中では、言ってしまってから「あ!」と気がついたり、余裕が出て来て初めて気がついたこともあった。

私が言葉に振り回されていると感じたのも、ある意味以前よりは余裕があるからだと思う。人間余裕が出てくると自分を振り返ることができるようになる。振り返った結果どうなったかというと「自分は少し周りと違う」ということだった。

思考のある人間がコミュニケーションを取るのはお互いの「違い」をすり合わせるためであり、その違いを受け入れるためだと思う。違っていてもわかり合える事でさらに深いコミュニケーションが取れるようになる。

動物だと本能的に合わないものとは分かり合えないだろう。捕食動物との関係性は頭でわかろうとしても本能的に喰われてしまうからだ。人間で例えるならそれは殺し合いにまで発展する事なのかもしれない。今も世界中で争いが絶えないのは本能的な部分を抑え「話し合い」がされていなかったりするからなのか? それとも人間としての理性を失っているからなのか?

言葉が通じない世界なら、本能的に感じていかないとそれは「死」につながるのかもしれない。だけど、言葉も通じるし話し合いもできるのに人間はたまに「嘘」をつく。

自分の都合や思うように伝わらないジレンマから「嘘」をつく。半ば諦めのような場合もあるが意図的に嘘を重ねていく人もいた。でもそれには必ず「理由」があってその多くは自分を守るためであったり、誰かを守るためであったり。中には単なる自分の利益のために嘘をつき、自分の都合の良いように動かしている人もいた。

だが、そうすることも結局はその奥底深くに眠っている「感情」に関わってくるもので一次感情は「寂しさ」や「悲しさ」だったりする。誰かに承認してほしいけどしてもらえない、だから振り向かせたいという「承認欲求」がもたらすものなのだ。

また、嘘は「コントロール」にも繋がっていく。

よくあるのは「親」が「子供」を思うがままにコントロールすること。渦中の両人は気がつかないこともあるが、周りから見ると一目瞭然で見ていて痛々しい。そこで使われるのが「言葉」によるコントロールなのだ。

母が子供に向かっていう言葉は一種の呪文のように、呪いがかかる。

何気なく発した言葉もずいぶん後になって気がつくこともあるし、その言葉が起点になり無意識に方向が変わってしまう場合もある。何気ない言葉はお互いの脳裏に刷り込まれ、潜在意識の中から時折顔を出すのだ。

私自身もその「何気ない言葉」によって知らず知らずにコントロールされていたのかもしれない。でも、そのことを私は覚えていない。世の中には忘れた方が良いこともあるという。私が忘れてしまって良かったこともあったのかもしれない。

今日は大事なことを忘れずにいられただろうか。そのことだけが気にかかること。

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