見出し画像

noteの書き方

私がこのnoteを書き始めたのは「匿名」で何かを書きたかったからで、思いの丈や赤裸々な感情をぶつけたいと思ったからだ。しかしヘタレな私は感情をぶつけることすらできないでいることに気がついた。

ネットの中は無法地帯でTwitterや2チャンネルなどは匿名でバンバン言いたいことを言っている人もいる。だけど、自分にとってそれがしたかったわけじゃなく、とにかく心中を吐露したかっただけなのにそれすらできなくなっていた。勝手に誰も見ていなくても「いい子ちゃん」になりたがっていたようだ。

それはネットによる不信感と自分の自信のなさで、文章が書けなくなっていたのと、あとはただ単なる「飽きた」という気持ちだ。

正直、書かなくなると書けなくなる。そんなことを以前も書いていた。同じことを繰り返し学ばない私が心底嫌になる。だけどまたこうして書いているのは他の方が書いている文章を読んで共感したり感動したり、文章でものを伝えるって本当に大事なんだなと思ったから。

実は動画にも挑戦してみたが、うまく喋れない。笑える動画になってしまった。本当に爆笑できるものなら良いのだが失笑、苦笑で情けない。何が自分に合っているかなんてやってみないとわからないからやってみた。

で、やっぱり文章を書くことに戻ってきた。

本を読むことも忙しくてしていなかったが、時間をとって本も読んでみた。とても面白かった。人間てすごい。自分の中の思考を文章にして伝えることができるのだから。本当にすごい。

人生100年をどうやったら楽しく生きれるかを考えていたのだが、文章にして残しておくといつでも読み返せて思い出せて早く実現しそうだ。日記にも書いておこうと思う。それほど「書く」ことが大事なのに、時々サボって書かなくなる。

でも気がついた。自分に負荷をかけて「〜ねばならない」にすると何もかもが嫌になる。自分が思っている「〜ねばならない」は本当に自分の基準なのか?

もしかしたらそれは、誰かの基準を自分の基準にすり替えているのかもしれない。そう思った時に苦しくなる原因がわかった気がしたのだ。苦しくなるのは本当にそう思っていないから。心から自分自身が思ったことなら、苦しくても苦しさは喜びになるはずだ。そう思うと「誰かの基準」で生きていることに気がつき、目が覚めた。

私は私の基準で生きることをしたい。私は私の基準で生きると言い切れないのがヘタレな自分の嫌な面だが、それは段階的に。もう自分を責めるのはやめる。自己肯定感を高めるには、今の自分を認めるしかない。今の自分が嫌でたまらないという人も中にいるだろうが、外に求めても付け焼き刃にしかならない。本当に自己肯定感を爆上げしたいなら、自分自身が認めるしかない。甘やかしであろうと、なんであろうと自分が決めることだ。

そう思うと心が軽くなった。私は私の道を行こう。

誰かに合わせたり、誰かに認めてもらうことは自分の意思に反することもある。それを「嫌」と思えないほど心は疲弊していたのだろうか。慣れてしまって感じられなくなっていたのかはわからないが、少しずつ整えて行こう。

私のnoteの書き方は、誰かを非難したり強い意見を発信したりはないけど、心の中を吐露していくのに書いて行こうと思う。誰かの役に立つとか世の中のためにとか大きなことはできなくても、誰もみていなくても未来の自分が読み返した時に心に響くものであれば良いと思って書こうと思う。

それがヘタレな自分のnoteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?