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瞑想、迷走、明窓

時々、自分のしたことに後悔するのは誰しもがあると思うけど、私の場合過去の自分がなぜそんなことをしたのかわからず、ただただ自分を責める傾向がある。

周りを見れば「良い人」ばかりで自分はなぜその中にいて、なぜ自分は「良い人」になれないのか。

それは見る方向が違っているからだと気がついた時、視点を変えて見ることにした。客観的に自分を見ることで何かが変わると思っていた。そしてもちろん見る角度を変えれば見える景色が変わってくるので、疑問に対する答えは出るのだろう。

しかし、そこで気がついたことがもう一つあった。

自分に蓋をして生きていることに疲れて自分を出したら「調子に乗るな」と言われそれ以降、やはり蓋をし続けることになった。というと人のせいになっているけど結局は自分が「調子に乗っている」と感じたわけで、一旦止めるからそこから走り出せなくなっていたのだ。

といつもこんな風に堂々巡りを繰り返す。それをやめたいのになぜかいつもぐるぐる回っている。それが気づき。

「感じる」ことは正直で、誰かに対する違和感や得体のしれない「モヤモヤ」は誰かに言ったところで理解されるものでもない。ただただこの感情をやり過ごすのか「こんな風に思ってるんだ」と受け容れるしかない。でもどうしても受け入れられない感情もある。それが人間だ。

昔、年上の人に言われたことで気がついたことがあったのだが、私は「自分のことを何も知らない人と付き合いたい」と言っていた。その時に「なぜ?自分のことをよく知っている人の方が付き合ってて楽じゃない?」と言われ複雑な気持ちになった。

その時はなぜ自分のことを知らない方が良いと言ったのかは未だに思い出せないのだが、今思えばその頃から心の中では私は自分のことが嫌いだったのかもしれない。それはいわゆる

本当の自分をさらけ出すのが怖い

ということなのかもしれない。「自分を出すと嫌われる」私の中にそんな思いがあるのか?そう思うとなんだか自分が嫌になるのだが、物事には必ず原因があって結果がある。そうちゃんと原因があるということに気がついたのだ。

そう「調子に乗って怒られる」ということにも通じてくるのだと書いてて思った。ではその原因は?

心理学で言われる「承認欲求」は子供の頃の育て方によって変わると言われていて、大人になってからの生活にも影響する。じゃ、私はどんな育て方をされたのか?私の両親はすでに他界していてそれを誰に聞けるはずもない。誰か私の子供の頃を知っている人はいないのか。と思っていたらなぜか姉から久しぶりに連絡が来た。不思議だが最近はそれが当たり前のようになっている。

思っている人から連絡をもらったり、ばったり出会ったり。考えていることがどこかへ筒抜けなのか…

それが自分の子供の頃にあれば、テレパシーのように自分の思いを誰かに伝えれたかもしれない。

ただ単に私は「伝え方」が下手だったのだ。

子供の頃に自分の気持ちを伝えたくてもどうにも言葉にできなくて、癇癪を起こしていたことや、姉達に対して本当は自分も仲間に入れてもらいたかったのに、歳が離れているからと仲間外れにされていることが悲しくて、うまく言えなかった。

素直な言葉で言うことを避け「綺麗な言葉」を選び始めると自分を飾ることしかできなくなる。自分を飾ると言うことは本当の自分ではない。どこか絵空事のような現実ではない世界。

子供の頃から素直に言えなかった。そして私は「それは親が悪い」と思っていた。小さい頃に家族旅行に行く際、私だけ祖母に預けて行かれたことや、小さい頃なぜか私のがいない写真が多かったことが大人になってからいろんな想像を掻き立て勝手に作り上げられていたのだ。

それは今でも変わらないかもしれない。でも変えなければ私の未来も変わらない。勝手にマイナスに作り上げたなら、今度は勝手にプラスに書き換えればよい、そう思った。

なんで、なんで、と思ってみたところで過去にやってしまったことに対して今更変えられるわけでもない。次の段階へ行くしかない。

未来が変われば過去も変わる

そう言った人がいた。聞いた当時は意味がわからなかったが、今ならわかる。それは未来が変われば過去の解釈も変わってくるからだ。あのときのことがあったからよかったとなれば「ありがとう」になるし、その嫌な出来事も「必要」だったとなる。

だとすれば、私が感じていた「自分不要論」も必要(本当は不要だったと気がつくこと)になる時が来るのだろうか。自分自身をさらけ出すことが必要となる時が来るのなら、喜んで心の蓋を取っ払って「素」の自分で生きて行こうぞ。

未来を変えるためには「今」を変える必要がある。

今生きている中で見たり聞いたり感じたりすることをどう解釈するか。それで未来は大きく変わる。変えようとする気持ちが一番で、変えたいと思う気持ちが未来を変えるのだ。

もしもどこかで「自分なんて」と思っている人がいたら、知ってほしい。私のようにいつもブレブレですぐに落ち込むことがある人間でも未来を描くと変わるんだと言うことを。決してそれは異例ではなく誰しもに当てはまることだと。

そしてこうして「note」に書き込むことも未来を描く一つになっていると言うことを。私は何をやっても続かなくて、noteも書いたり書かなかったりだけど、それでも生きていられるんだってことを。

誰もが一緒じゃない、誰かの「すごい」を真似てみたところで、続かないのはわかっていてそれでも「自分」しかできないことをやっていたら続けられたり、もしかしたらブレても戻ってこれることが自分の才能かもしれない、と勝手に思い込んでいる。それが私。

自分の人生は自分のものだ。誰に指図されるわけでも誰に委ねらるわけでもない。自分自身が自分の人生の舵を握って生きて行くのだから、どんなことでも良いから「自分」を見つけてほしい。それが私のように「ヘタレ」な部分でも「ブレブレ」な部分でもなんでも良いから「自分」を見つけてほしい。

私は、書くことで浄化していることに気がつけたのでどんなに間が開こうと書くことはやめずにいようと思う。うん、良い言い方だ。時々書くと言うことを宣言したまでで、偉そうには言えないが…。

表現は人それぞれ、読み手に読みやすいように書くことがプロのライターの役目だと言われたが、私の場合は魂込めて心をさらけ出すことが素人の役目だと思っている。

瞑想としての文章。漢字変換したらたくさん出てきた。「瞑想」「迷走」「明窓」迷走はよくしているが、明窓とは光がさしこむ窓明るい未来が描けそうだ。

ブレても戻ってこれる場所それがnote書く場を提供してもらって本当に感謝しかない。ありがとうございます。




































































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