若さ、あるいは幼さと折り合いの悪さ

18歳〜21歳の間バイトしていた蕎麦屋が、今月末に閉業してしまう事を知った。

平日の間に2日と、そして土曜日に通い、働いた店。まだ何者でもなかった、だけど何者かになりたかった私が日銭を稼ぐために過ごしていた場所。バイトを辞めた後も、そこに行くといつでも、あの頃に戻れるような気がしていた。

決して安いお店ではないから、バイトを辞めたあとしばらくは1人で行くことが難しかった。だけどちゃんと働いていれば顔を出せるような、そんな距離感の場所だった。
たまに訪れては世間話や身の上話をする場所。長い従業員の方が変わらず働いている様子を見ていると、当時の情景を思い返すことができる。

先日、所定の営業時間内に訪れたその店は、もう閉店したようだった。暖簾は出ていないけれど入り口が解放されているのを見て、元スタッフの私は、今まさに店が締め作業中であることを察することができた。恐る恐る中に入って「今日はもう締めちゃったんですか」という言葉から会話が始まると、やがて月末に店を閉めることを知らされた。

寂しかった。寂しいと感じた。そして帰り道、あぁ、ここは私の居場所だったのかもしれないと察した。バイトを辞めた後は常連さんのように通っているわけではなかったけれど、この店はきっと私の居場所だったんだ。恋人のように会いたくて焦がれるわけじゃない、だからと言ってもう会いたいわけではなくて、だけどたまに会って話をすることを疑いようもない、親戚のような距離感だったのだと思う。
店のオーナーも店を手伝うオーナーさんの家族も勤続が長いスタッフさんも、私に気がついて声をかけてくれる。それは好きだとか嫌いだとか個人へ向けた感情とは違い、元スタッフの顔を懐かしむような側面を感じることができ、私には心地のいい距離感だった。

それを知って2日後の昼、その蕎麦屋にランチタイムで訪れた。ランチタイムだけれど、仕事もないし昼からビールを開けた。おつまみを頼み、蕎麦はまだ頼まない。そんな昼飲みの作法もこの店で覚えたことだ。

一人で訪れるとカウンターに通されることも、働いていたから知っている。カウンター越しに蕎麦をうつオーナーのパパさんと話をする3メートルほどの距離感が、私にはちょうどよかった。半年に一度会うくらいの距離感も、私にはちょうどよかった。まだ自分を語る言葉すら知らなかった頃の私を知ってくれている人と話す、近すぎず遠すぎない居心地の良さを私は居場所だと感じていたのだ。

働いていた頃と変わらない大学で、私は研究と実践を続けてきた。気になることも考えていることも当時からそう大きくは変わっていない気がする。だけどあの頃の私と今の私は決定的に何かが違っている。その何かを感じることができる場所。

あの頃、私は他のバイトの子や働いている人とどんな話をしていただろう。大学で起こったことの愚痴を言っていたただろうか。同じ年のバイトの子の卒論テーマについて御託を並べたような気がする。当時付き合っていた彼氏の話もしたかもしれない。髪を切ったこと、服を買ったこと、ピアスを開けたことも話していたような気がする。週に3度も顔をあわせるから、友人にも恋人にも言わないような話をしたことを思い出す。今日は忙しすぎるねとか、今日は暇すぎるねとか、スタッフにしかわからない変化について話していたあの時間を、懐かしさでもなく寂しさでもなく思い返していた。

ビールを飲みながら、「この場所がなくなってしまう」という言葉の意味するところをしばらく考えた。ここに来ればスタッフやオーナーさんとその娘さんに会える、という暗黙の了解がなくなってしまうこと。美味しい料理がもう食べれなくなってしまうということ。この物件は貸しに出されてしまう可能性がある、ということ。そして業態を変えて店舗の営業が行われる可能性がある、ということ。
土地自体は時空から消えることはない。店の関係者も、店がなくなったところでいなくなるわけじゃない。でもこの店が繋ぎ止めていた人々や時間や空間は次第に宙ぶらりんになり、時間をかけてなくなってしまうことを予想できないほど、私は幼くなかった。

決まった店に通うのが好きな私は、コロナ禍・コロナ明けを経てたくさんの喪失感に襲われた。一方で、足繁く通う常連さんの多い都心の店は、あまりなくならなかった。場所の求心力は、人の繋がりがどれくらい店や場所に依存しているかで客観的に語ることができてしまうのかもしれない。

月末には閉業してしまうこの蕎麦屋は、住宅街の中にある。お客さんの多くは近くの勤めか近くに住んでいる人だ。この場所がなくなっても、きっと街中ですれ違う。この店の近くを通ったら、蕎麦屋だったこの場所をきっと思い出す。閉業することが決まったこの場所は、きっとなくならない。なくならない。なくならない。

何もかも、本当に何もかもが時間と共に変わっていってしまう。当たり前にあったものも、気がついたらそこにはない。人々も変わっていってしまう。通う場所も、感じていることも、考えていることも、することも変わっていってしまう。この言いようのない寂しさも、変化の先にある出来事への期待も、留まることをしてくれない。変わってしまうのが嫌だと駄々を捏ねることを、若さ、あるいは幼さと折り合いの悪さだと呼ぶのだろうか。それを未熟と呼んで、寂しいことを過度に嘆かなくなったり、思い出さないようになることを成長と呼ぶのだろうか。正しそうな耳障りのいい言葉が、いつも憎い。何もかも、変わらなかったらいいのに。今が一番楽しくて、今が一番素敵で、今が一番愛しいのに。ちょっと悲しくてちょっと嬉しい明日なんて要らないのに。ちょっと辛くってちょっと楽しい未来なんかより、今日がずっと続いたらいいのに。こんな子供じみた願望を、正しさと呼んでくれる場所があったらいいのに。きっと明日は明日が一番楽しくて、一番素敵で、一番愛しいと思ってしまうこと。毎秒毎分毎時間変化してしまう私を、ずっと繋ぎ止めてくれる場所なんてないこと。何かが変わって、なくなって、生まれていく時間を愛しいと思うことでしか元気に明日を迎えられないこと。変化も喪失も獲得も、トレードオフなんだと納得していくこと。納得することに慣れていくことが「正しさ」として毎日毎日私を襲ってくる。私は毎日毎日それと戦う。寂しさだけが味方の、勝ち目のない試合。いつか変化を楽しんで生きていくようになる自分になるまで、この格闘は続く。そして気に食わないことに、きっとそれを人々は成長と呼ぶのだろう。

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