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「愛した人を忘れずにいることは、決して無駄にはならない」

小説を読むことが苦手で音楽もあまり聴かない私の目に突然、「愛した人を忘れずにいることは、決して無駄にはならない」という言葉が飛び込んだ。
忙しいからと予定を断ってしまうくせにInstagramはよく見てしまうという悪癖のおかげか、小説を読まずとも、音楽を聴かずとも、ロマンチックな言葉に触れることができる。練り上げられた小説や歌詞のようなものが苦手な私にとって、SNSがあるとはいえ、こういった種類の言葉に出会うことは稀なことである。

古くからの友人が、インスタのストーリーにジョージアの紅茶の写真を上げていた。その人は海外で生活していた時期が長く、今もプラハに滞在している。ご丁寧に紅茶のキャッチコピーを日本語に翻訳してストーリー上にテキストで書いてくれていた。
「愛した人を忘れずにいることは 決して無駄にはならない」というキャッチコピーを、私は思わずメモした。なにか、私の思いと重なる部分があったのかもしれない。

仕事が定時を過ぎ、なんとなく1年以上放置したワイヤレススピーカーの電源ボタンを、どうせ電池切れだろうと半ば諦めながら押した。するとピロンと音がして電源が入る。記憶の中ではそのあと直ぐにまたピロンと鳴って、Bluetoothでスマホが繋がるのだが、その音は鳴らない。それで、半年以上前にスマホを変えてから一度も接続していなかったことに気がついた。

やらなきゃいけないことを全て放りだして、冷蔵庫からビールを出して、そのスピーカーを持って玄関先に出る。YouTubeMusicのアプリを開いて何かを聴こうと思ったら、ほとんど履歴のないそのアプリに1曲だけ見覚えのある曲が表示されていたのでそれを流す。そうだ、この曲は以前ドライブに連れて行ってもらった時にかけた曲で、「眠たくなるから変えてくれ」と言われた、だけど私が大好きだった曲だった。

曲をかけて、ビールを開け、タバコに火をつける。どうして音楽を聴かなくなったのかを思い返すと、Spotifyの支払いに登録していたカードを紛失した際に利用停止をしてから決済できずに利用できなくなっているのと、ワイヤレスイヤホンを紛失していることが原因だと改めて思い出した。

ずっとSpotifyで音楽を聴いていたから、利用停止されている今、履歴もプレイリストも簡単に見ることはできない。どんな曲を聴いていたかぼんやりと思い出すことはできても、アーティスト名や曲名は殆ど覚えていなかった。

一人だけアーティストの名前を思い出して検索し、続いてそのアーティストの曲をかけ始める。
ビールを片手に、かつてダンスをやっていた頃の感覚が戻る。辺りはもう暗く、人通りの少ない玄関先で、自然に体が揺れる。たまに人が通る気配がすると恥ずかしくなって体を停める。

そんなことを続けていると父が帰宅した。家に入ろうとする父を引き留めて、会話に付き合ってもらうことにした。私は今、人と話していないと自身のバランスを見失ってしまうくらい不安定だという自覚があり、そのバランスを取る作業に家族が付き合ってくれることを純粋に「幸せ」だと思った。

父は音楽とオーディオ機器が好きで、ひとしきり喋った後、自作したワイヤレススピーカーの音の出来を確かめてほしいと言って私を寝室へ連れ込む。スピーカーの名称を聞き、私のスマートフォンを接続する。そこで、かつて大好きだった曲、ドライブ中に眠たくなってしまうからと止められてしまった曲をかける。玄関先で聞いていた音よりも鮮明に、シャープに、軽やかにその曲が鳴る。私は父の作るオーディオ機器の音にはいつも関心していたが、その音を聞くのは久しぶりだった。

リビングで仕切り直そう、と言って父と二人で二階へ上がる。二階では、寝室よりも遥かに気に入っている、父が作ったオーディオ機と大きなステレオスピーカーで音楽を聞くことができる。
私はかつて父に教えてもらったJacob BanksのChainsmokingという曲をリクエストした。しかし父は沢山のCDを持っていて、探すから少し待ってと言う。「それなら私も部屋からCDを持ってくる」と言い、一階の自室へ戻り、たった10枚ほどしか所持していないCDから思い出深いCDを2枚選び二階へ戻った。

いつも父が新作のアンプを作ったら音質チェックに使ってくれていた曲の収録された、思い出深いCDをかける。1曲目から流しているのがもどかしく、7曲目の例の曲を流す。やはり父の作るアンプで聴くその曲が一番好きだ。こもりのある録音音源の曲を、シャープで高音まできれいに出るアンプスピーカーで聞くと澄み渡る。雑音が消えていくような感覚。音が、歌詞がストンと私の中に落ちてくる。父と作音の話をしながら、次にかける曲を探す。いつの間にか、リビングのアンプはBluetoothに対応していた。スマホを接続してYouTubeMusicでthe pillowsのストレンジカメレオンを探し、流し始める。

誰かと音楽を聴くのはいつぶりだろう。音楽を聴きながら、音楽の話もそれ以外の話もする。父は村田沙耶香の「となりの脳の世界」という本を最近読み終わったと言う。芥川賞作家だから小説なのだろうと思って、「小説は読めないの」と伝えると、「エッセイ集だから読めるはず」と言って手渡してくれた。巻頭から少し読んだだけで、飾らずに身体で考えて書く作家なのだとすぐにわかった。するすると言葉が内側に入ってくる。短編のエッセイは、生活の、村田自身の話だった。

その本を少し読んだところで借りることにし、父がJacob BanksのCDと一緒に出してきた、日本のバンドのCDをかける。
男性のハイトーンボイスで青臭い歌詞を歌い上げる曲を、なぜ父がおすすめしてくるのかわからなかった。

歌詞カードを開きながら訝しげに聴いていると、父は「暗くて本質的(笑)な歌詞を好む傾向にある今の聴者に、明るい希望をどう届けるかを考えているバンドなのだ」と言う。
そう思って聴き歌詞カードを見ると、たしかにそのようだった。The Ice Ageと題されたそのアルバムのまさに一曲目の歌詞カードに、「君のいない世界を愛してしまったら 果たして僕らはどうなってしまうのだろう」という歌詞を見つけるのにそう時間はかからなかった。

今目の前にある大切なもの、愛しているものを掬い上げてきたその手から、沢山の愛してきたものがこぼれ落ちている。大好きだった音楽を殆ど聞かずに半年以上過ごせてしまうこと、忘却してしまった愛した人との時間や出来事、捨象された私自身の人生のディテール。
「愛した人を忘れずにいることは、決して無駄にはならない」という言葉も思い返しながらそんなことを考え、今日はこの音楽と言葉を受け取った。

父は寝支度をはじめ、私は玄関先に戻る。雨はまだ降っている。ひさしのおかげで濡れない体をまた揺らしながらこのテキストを書く。

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