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10年前の読書日記15

2014年1月の記

 初詣は恒例の高尾山。
ここで去年引いたおみくじが大吉だった。
「みくじ百札の中で最も大きな吉運ですから何事をしても吉事に恵まれて人からも尊敬を受けます」と太鼓判だったんだが、今思い返してみると、とくに尊敬された覚えがないようだ。あの程度が私の最高運なのだろうか。己の限界を突きつけられる思いである。
 今年は末吉。
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 新年早々、温泉プールへ行って泳いだ。
 体力をつけないともうダメだと思ったのである。だから今年は水泳。年初に目標を立てても完遂したためしはないから、とくにノルマは作らないけれども、やたら泳ごうと思う。

 このところの体力の低下は深刻で、集中力は減退し、1日のうち執筆にかける時間も減る一方。おまけに好奇心も磨耗して、いいことは何もない。今こそ有酸素運動によって、人生を取り返さなければならない。

 実はこれまでにも水泳にチャレンジしたことは何度かあった。しかし、同じコースを行ったりきたりで景色が変わらないから、退屈になってやめていた。そう考えるとジョギングのほうがよさそうだが、そっちは腰の負担が大きすぎて毎回挫折。本当は歩くのが一番性に合うものの、体力をつけるまで歩こうと思うと、いくら時間があっても足りない。
 そこで今一度水泳にトライしようと考えたのである。実は、景色が変わらないことを退屈と思わないコツがわかったのだった。

 水泳に必ずつきまとうあの単調さを乗り越えるコツ。
 それは水泳を移動と思わないことだ。
 水泳もジョギングも歩くのもつまりは移動であり、移動すなわち旅の一種と思うから景色の変化を期待してしまう。それが敗因だった。

 そこで、水泳は旅でなくて休憩、もしくはマッサージと思い込む。運動だと思ってもいけない。運動だと思うと、楽しちゃだめという強迫観念が生まれ、疲れるまでがんばってしまう。それは苦役である。苦役だからなんとか風景を眺めて気持ちを紛らせようとする。なのに景色は退屈。悪循環である。
 水泳は旅でもないし、運動でもない。だからガンガン泳がない。浮かぶだけでいい。浮かんで少し手足を動かしている。前進しようと意図したわけではないが結果的に前に進んでいた、という形が理想だ。

 おばちゃんスイマーにも抜かれるけれど、こっちは風呂にでも入ってるようなつもりだから、全然気にならない。そうやってプカプカしているうちに、気がつくと500メートル泳いでいたという。そういう自己催眠泳法である。

 結局1ヶ月で4回プールに通い、2キロ半泳いだ。たったそれだけかと言われそうだけど、ガシガシ距離を稼ごうとすると、旅になって続かないから、ぐっとこらえてプカプカである。体力はそのうちつくだろう。

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 今年最初に読んだ本は『坂口恭平躁鬱日記』(医学書院)。
躁鬱病(双極性障害)を患う著者の日記である。
私は躁鬱病を知らないので、躁期にさまざまなアイディアが溢れ出てくる様は、そこだけ読むとうらやましいぐらいだが、やはりところどころに差し挟まれる鬱期の記述が切実過ぎて身につまされる。不安から抜け出すため「自分はうまくいっている。何も心配することはない」と繰り返し自分に言い聞かせる姿に、強い共感を覚えた。

 私は鬱と診断されたことはないけれども、20代の頃に肝臓を悪くし、長期間にわたって何百本もの注射を打った。その薬に、鬱になる副作用があったらしい。そんな副作用があることは当時はまだ知られていなかったから、私は仕事が思うようにできないせいで落ち込んでいるのだと思っていた。今思えば、あれは副作用だったのかもしれない。

 自分の人生は何もかも悪い方向に向かっている。みんなが自分のことをだめな奴だと思っている。そんな自己否定ばかりの日々だった。
 そしてそんなとき、心の中で、もうひとりの自分が、懸命に状況を客観視して、自分を肯定しようと努めるのだ。
「何に悩んでいるのか。それを明確にしてみよう」とすがる思いで書きつける著者の姿は、まさしく20代の頃の自分と重なる。

 彼は鬱が明けた調子のいい時期に、いずれまた鬱になって落ち込むであろう自分に宛てて手紙を書く。そこに鬱期の自分に有効と思われる考え方や行動指針を列挙しておき、鬱になったらそれを読んで参考にしようとするのである。手紙にはたとえば、ネットはしない、寝てる(漫画を読もう)、といった項目が並ぶのだが、まさに同じようなことを私もしていた。

 私の処方箋は、音楽を聴く(できれば踊る)、じっとしていると考え過ぎるからなるべく外に出て散歩する、夜は人生について考えない(考えるなら晴れた日の午前中)などだった。
 当時のことを思い出せば出すほど、この日記は坂口恭平本人にとっての切実な処方箋であって、他人がああだこうだ批評するような、いわゆる作品ではないのだという思いが強くする。だから書評はしないで、感想だけ書くにとどめる。
 必要な人だけ読めばいい。批評家は読まなくていい本。

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 わけあって場所は言えないが、国内取材の帰りにある町に立ち寄った。その町は自転車も入れないぐらいの狭い路地が縦横に走る迷路になっていて大興奮。
 日本中にある迷路のような町を歩いてみたくなった。


                    2014年本の雑誌より転載


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