見出し画像

あくまでも手段であるはずの「積み重ねる」が目的になっていないか?

あくまでも手段であるはずの「積み重ねる」目的になっていないだろうか?

たとえばトレーニング。

「スクワットを100回やる!」が目的になっていないだろうか?

あくまでも足腰を鍛える手段であるはずのスクワットだが、ただ何も考えずに惰性で数をこなすことが目的になっていないだろうか??

以前のトレーニングの先生に、

「数こなすだけを目的にしちゃならんですよ。
 ジックリ、ゆっくり、シッカリ。
 体と対話しながら鍛える。
 つけた筋肉を本当にやりたいことに活かす。
 スポーツ?格闘技?健康維持?そっちが目的。
 トレーニングはあくまでも手段。
 そして継続するのが大事。
 ある一日だけ限定で何時間やれば良いとか
 100回200回やれば良いってことはない。
 筋肉をつけるのは時間がかかり、
 落ちるのは一瞬。
 だから継続させなきゃならんのです」

と言われた。

「考えながらやるっつってもなぁ……」と思いながら、『良いスクワットのフォーム』と言われるモノを観察して、自分に落とし込んだ。鏡で自分のブサイクなフォームを確認しながら、、、

「上半身をそり過ぎていないか」「腰の落とし方は」「おしりの突き出し方は」「バーベルの重さはどうかしら?」「ムリしてカラダを壊すのは本末転倒!」「っていうかトレ前のストレッチ大事じゃね?」「カラダ作りって、突き詰めると食生活にまで行くよね?」などなどをシッカリと考えながら、ジックリ・ゆっくり・シッカリと10回やる方が全然良いと思う。

コレを写真の世界に置き換えてみるとどうでしょう?

たとえば、

「量のない質はなし」

を文字通りに受け取って、「ただただ枚数を多く撮れば上手くなるって森山大道が言ってたぜ!」で、ノーアイディア・ノーシンキングで量だけを撮るのは、ちょっと、ねぇ。。。

「『量のない質はなし』とか言うけど、そもそも何も考えずに撮った量なんて意味はないっすよね。もちろん撮らないよりは全然マシだけど、ちゃんと考えながら撮り重ねた量の先に質があるんですよね」

こんなことをクドクド言わなくても分かって欲しいんだけど、残念ながらそうでもない人も増えてきているので、ちゃんと書かなければならない。

でも書きすぎると、「結局、何を言いたいのかよう分からん……」になってしまうジレンマ。

文章だって、ただダラダラと書いているだけでは全然ダメで、やはりシッカリと考えながら数をこなさないと上手くならない。。。絵もそうだ。何だってそうだ。プログラミングだってそうだった。


……ん~~~。今日もダラダラと書いてしまった気がする。。。まだまだ頑張ろう。


この記事が参加している募集

熟成下書き

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?